覚書004

・時間という変数がない世界は、決して複雑ではないのだ。その世界は相互に連結した出来事のネットであって、そこに登場する変数は確率的な規則に忠実に従う。[…]それは澄み切った世界、風が吹きすさび、山々の頂のような美しさに満ち、思春期の若者のひび割れた唇のように美しい世界なのだ。

 

・わたしたちは科学するにあたって、この世界をなるべく客観的な形で記述しようとする。そのために、己の視野が生み出すゆがみや錯覚をぬぐい去ろうとする。科学は客観性を希求し、合意可能な共通の視点を切望するのだ。

これはたいへん立派なことだが、観察を行う際に自分たちの視点を無視することで失われるものにも注意を払う必要がある。科学がどんなに客観性を希求するにしても、この世界におけるわたしたちの経験が世界の内側からのものだということを忘れてはならない。わたしたちがこの世界に向ける視線は、すべて特殊な視点からのものなのだ。

 

・馬車とは車輪なのか。車軸なのか。それとも枠組みか。[…]「馬車と同じように、ナーガセーナという名前も関係と出来事の集まりを指しているにすぎない」と。わたしたちは、時間と空間のなかで構成された有限の過程であり、出来事なのだ。

 

・「わたしは物理学に取り組む際に、感情を退けず、むしろ解放する。物理学をするということは、考え、計算し、文献を読み、議論するということだが、それらを推し進めているのは感情だ」

―『時間は存在しない』カルロ・ロヴェッリ

 

 

「小野さん、真面目だよ。いいかね。人間は年に一度位真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮ばかりで生きていちゃ、相手にする張合がない。又相手にされても詰るまい。僕は君を相手にする積で来たんだよ。好いかね、分ったかい」

「ええ、分りました」と小野さんは大人しく答えた。

「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていない様だが」

「そうかも――知れないです」と小野さんは術なげながら、正直に白状した。

「そう君が平たく云うと、甚だ御気の毒だが、全く事実だろう」

「他人が不安であろうと、泰然としていなかろうと、上皮ばかりで生きている軽薄な社会では構った事じゃない。他人どころか自分自身が不安でいながら得意がっている連中も沢山ある。僕もその一人かも知れない。知れないどころじゃない、慥かにその一人だろう」

 小野さんはこの時始めて積極的に相手を遮ぎった。

「貴所は羨しいです。実は貴所の様になれたら結構だと思って、始終考えてる位です。そんな所へ行くと僕は詰らない人間に違ないです」

 愛矯に調子を合せるとは思えない。上皮の文明は破れた。中から本音が出る。悄然として誠を帯びた声である。

「小野さん、其所に気が付いているのかね」

 宗近君の言葉には何だか暖味があった。

「いるです」と答えた。しばらくして又、

「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま

「僕の性質は弱いです」と云った。

「どうして」

「生れ付きだから仕方がないです」

 これも下を向いたまま云う

 宗近君は猶と顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上に肱を乗せる。肱で前へ出した顔を支える。そうして云う。

「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」

「救いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先に居た。顔を押し付ける様にして云う。

「こう云う危うい時に、生れ付きを敲き直して置かないと、生涯不安で仕舞うよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しは付かない。此所だよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間が幾何もある。皮だけで生きている人間は、土だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのは勿体ない。真面目になった後は心持がいいものだよ。君にそう云う

経験があるかい」

 小野さんは首を垂れた。

「なければ、一つなって見給え、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬の様にうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なる程出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。成程神経も鈍いだろう。 ――然しそう無神経なら今日でも、こう遣って車で馳け付けやしない。そうじゃないか、小野さん」

 宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。

「僕が君より平気なのは、学問の為でも、勉強の為でも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれる程、自信力の出る事はない。真面目になれる程、腰が据る事はない。真面目になれる程、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が厳存していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。遣っ付ける意味だよ。遺っ付けなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。ロが巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」

「いえ、分ったです」

「真面目だよ」

「真面目に分ったです」

「そんなら好い」

「難有いです」

―『虞美人草夏目漱石

 

それは、まるで夕暮れに何かを眺めようとするときにも似ている。光が足らないというわけではないが、だんだんと暗くなるから、見るのを止めることができない。かくして、事物や人物が浮かび上がってくる。見るのを止めることができないということのうちに、つねに留まっていよ。

-

人生には、その現実を完全には把握できないような、決定的な出来事や出会いが幾つかあるものだ。それらは、たしかに起こっていて、道を示してくれるのだが、実は止むことなく起こりつづけている。
―『書斎の自画像』ジョルジョ・アガンベン

 

分かったよ。
子供だったころのマルワーンは微笑ましい遊びをよく考えついた。一度、時間を拾うから手伝ってほしいと彼に頼まれたことがある。ぼくらは谷に向かって下っていき、腹這いになって体を伸ばし、まったく動かずに一本の雑草を一時間以上見つめた。ぼくらは石像のように押し黙っていた。自然にあるものを何でも一時間見つめれば、その一時間を脳に蓄えておける――マルワーンはそう信じていた。みんなが時間を失っていくのをよそに、ぼくらは時間を蓄えるつもりだった。

―『死体展覧会』ハサン・ブラーシム

 

血、神経、苦痛だ。
赤い肉に、自分の肉と同じようなあの肉に、彼は苦しみを与えた。
そうだとすると、彼の周りにある地面の上では、彼の身振りはすべて苦しみを与えるのだろうか?
それでは、彼は植物や動物たちの苦痛のなかに居坐っているということになるのだろうか?
それでは、彼は殺すことなく樹木を切断することはできないのだろうか?
彼が樹木を切断するとき、彼は樹木を殺しているのだ。
鎌で刈り取るときも、彼は殺している……。
[…]
この大地だ!
四方に幅広く広がっているこの肥沃で重々しい大地は、樹木や水や河や小川や森や山や丘を担い、さらに、周囲できらめく稲妻のさなかでまるで回転しているように見える丸い町や、その大地の毛にしがみついている人間の群れを載せている。この大地は生命を持った生き物ではないのだろうか? つまりひとつの身体ではないのだろうか?
大地は力と悪意を持ち合わせているのではないか?
俺が蜥蜴に襲いかかったように、巨大な塊が俺の上に転がってくるかもしれないのだろうか?
この谷間、あるいは丘のあいだのこの大地のしわを俺は今引っ掻いているのだが、俺のシャベルの刃の下でこれが動くようなことになればどうなるのだろうか?
これは肉体だ!
生命を持っているんだ!
生命とは動きであり、ため息でもある……。
それは水道橋の声であり、木々の歌だ。
生命があるのだろうか? もちろん、そうだ! 何故なら、この大地は動くからな。十年前には、大地が揺れ動いた。南の方で、エクスのあたりで、ランベスクや他の村がいくつか崩れ落ちた。あの時、マノスクの鐘は鐘楼の上でひとりでに鳴り響いたのだった。
―『丘』ジャン・ジオノ

 

私とあなたは違うということ。
私とあなたは違う言葉を話しているということ。
私は、あなたが分からないということ。
私が大事にしていることを、あなたも大事にしてくれているとは限らないということ。
そして、それでも私たちは、理解し合える部分を少しずつ増やし、広げて、ひとつの社会のなかで生きていかなければならないということ。
そしてさらに、そのことは決して苦痛なことではなく、差異のなかに喜びを見いだす方法も、きっとあるということ。
―『対話のレッスン』平田オリザ

 

公共性は真理ではなく意見の空間なのである.意見はギリシア語ではドクサとよばれる.意見とは,「私にはこう見える(ドケイ・モイ)」という世界へのパースペクティブを他者に向かって語ることである.公共的空間における私たちの言説の意味は,その違いを互いに明らかにすることにあり,その違いを一つの合意に向けて収斂することにはない.むしろ,この空間においてはある一個のパースペクティブが失われていくことの方が問題なのである.

 ー世界から身を退くことは個人には害になるとは限りません.……しかし一人撤退するごとに,世界にとっては,ほとんどこれだと証明できるほどの損失が生じます.失われるものとは,この個人とその同輩者たちとの間に形成されえたはずの,特定の,通常は代替不可能な<間>in-betweenなのです.(H.アーレント『暗い時代の人々』)

ある人の意見が失われるということは,他にかけ替えのない世界へのパースペクティブが失われるということである.ある人が公共的空間から去るということは,それだけ私たちの世界が貧しくなるということを意味する.なぜなら,正確にいえば世界そのものというものは存在せず,「世界はこう見える」が複数存在するだけだからである.

―『思考のフロンティア 公共性』齋藤純一

 

この社会は,9月11日以前からすでに暴力を予想したセキュリティの装置とサーヴィスに溢れていた.自らが排除したものと出会わざるをえないことをどこかで予期していたわけである.[…]
無視され,黙殺されようとしているところ,遠ざけられようとしているところに逆に「近さ」を設定していく動きを政治的と呼ぶならば,排除の完成を妨げるそのような政治的行為が私たちの社会認識にとっても不可欠の条件となっていること[…]

―『思考のフロンティア 思考をひらく』「見棄てる」という暴力に抗して 齋藤純一

 

山の家は隠遁者が籠もる庵の風情を失い、かつて父とよく行っていた登山道にある山小屋のにぎわいを見せた。テーブルにはワインのボトルが置かれ、ストーブが赤々と燃えるなか、友たちが夜更けまで語り合う。世の中から遠く隔てられた距離が、僕らをひと晩かぎりの兄弟にするのだった。

―『帰れない山』パオロ・コニェッティ

 

川に棲む魚の視点で見ると、すべてのものが山から流れてくるということだ。昆虫も、小枝も、木の葉も、なにもかも。だから、魚はいつも川上を見ているのだ。流されてくるものを待ちながら。川の、いまいる地点が現在なのだとしたら……と僕は考えた。過去は、すでに僕のところを流れ去った水、つまり下流へ向かう水だ。そこにはもう、僕のためのものはなにひとつない。それに対して未来は、上から流れてくる水だ。思いがけない喜びや危険をもたらす。ということは、過去は谷で、未来は山だ。

―『帰れない山』パオロ・コニェッティ

 

新聞はできるだけ冷静で客観的な文体で書くことが求められます。戦前の新聞ではかなり情緒的な文章があり、日本人に好戦的な気分をあおった一面があるという反省に立っています。

「思う」と「想う」

―『校閲記者の目』毎日新聞校閲グループ

 

覚書003

そこに結晶するのは、生き続けるのをなんらかのかたちで妨げそうな記憶を抑圧する人間の能力に対する抵抗である。世界に突きださた人間はーーとノサックにはあるーー「背後をふりむく勇気がなかった。なぜならうしろは一面の火の海だったから。」
― 出典: カンポ・サント (ゼーバルト・コレクション) W.G.ゼーバルト [76ページ]

 

カスパーが受けた訓練は、彼のはじまりをすっかり忘れさせることはできなかった。カスパーはまだ学習したことの裏をかいて戻ることができるのだ。
― 出典: カンポ・サント (ゼーバルト・コレクション) W.G.ゼーバルト [59ページ]


「対話」が他者とのコミュニケーションの原形であるのは、その合理性から自由となる契機を、一対一という最も小さな単位が孕むからである。
― 出典: 詩的間伐―対話2002‐2009 稲川方人 [8ページ] 


過去の「すべての」敗者または被抑圧者は、実際には忘れ去られている。忘却されてはいるが、消滅したわけではない。前の用語を使用するなら、忘却から救いだされることを「待っている」。//現在の被抑圧者は自分「だけ」を解放することではなくて、「過去の他者たち」を解放することのほうがずっと重要であるということだ。少なくとも過去の他者(死者)を解放することは、現在の抑圧からの解放のための決定的条件である。
― 出典: ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読 (岩波現代文庫) 今村仁司 [137ページ] 


甘い匂いを吸い込む。泣きそうになる。涙が決して出ないと分っている。投票も涙も許されない。夢のような夢でないこの状態は、私と私以外の人々にとって歴然とした、合理的なことだ。
― 出典: 実験 田中慎弥 [103ページ] 


エストラゴン さわらないでくれ!聞かないでくれ!なにも言ってくれるな!ただ、そこにいてくれ!
― 出典: ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット) サミュエル・ベケット [96ページ] 


ヴラジーミル そのほうがいいと思うんなら、いつだって別れられるんだよ。

エストラゴン 今じゃもうむだだろう。
― 出典: ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット) サミュエル・ベケット [92ページ] 


ぼくのそばから逃げないで!信じて!分かって!ぼくの魂の泥沼を乾かしておいて、今きみは雲の中。もう完全にきみの勝ちだよ。
― 出典: クレーの詩 (コロナ・ブックス (111)) パウル・クレー [19ページ] 


踊っているうちに足がもつれて倒れた。皮を剥がれたピンクの兎のように、頭から、お尻から、お腹から、そっと撫でたり揉んだりしているうちに生き返る。こんなこと、ずっとしていてもいいのかしら。
― 出典: 雪の練習生 多和田葉子 [153ページ]


「寒い」という形容詞は美しい。寒さを得るためなら、どんな犠牲を払ったっていいとさえ思う。凍りつくような美しさ、ぞっとする楽しさ、寒気のする真実、ひやっとさせる危険な芸当、あおざめる才能、冷たく磨かれた理性。寒さは豊かさだ。
― 出典: 雪の練習生 多和田葉子 [48ページ] 


バットで豚を殴り殺したあの男の性質が隠れているんじゃないかと、恐れているのか?しかし、寿万さんからもらった体もその体のどこかに潜んでいるかもしれないあの男の性質も、直通じゃない。全部、父さんを通じてお前に伝わっている。
― 出典: 神様のいない日本シリーズ 田中慎弥 [137ページ] 


海の色に自分の決意が表れてしまっている。誰かに気づかれてしまう。
― 出典: 図書準備室 田中慎弥 


安寿子の口から出たことになっている、この「世界で、同じ時、同じ所に、居あわせることになってありがとう」ということばは、むしろ私たちの作家が、知己たちにあてた永訣のあいさつであったように思えてならない。(中略)一九六三年の「アンケート」で、埴谷は「友人に一番のぞむことは?」と聞かれて、 無限の時間のなかで偶然一緒に生れあわせた哀感 と答えているからだ。埴谷がのこした多くのことばたちのなかでも、もっとも美しいもののひとつであろう。
― 出典: 埴谷雄高――夢みるカント (再発見 日本の哲学) 熊野純彦 [263ページ] 


「世界を透察し、説明し、けいべつすることは、偉大な思想家のすることであろう。だが、私のひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界をけいべつしないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と賛嘆と畏敬をもってながめうることである」
― 出典: シッダールタ (新潮文庫) ヘッセ [154ページ] 


映像はけっして鮮明ではない。ぼやけている。ひとつのアングルを選択し、この世が慈悲に満ち、やさしく見える瞬間を待つことによって、私の目配せからはいっさいの客観的な価値が奪われる。
― 出典: 不完全なレンズで―回想と肖像 ロベール・ドアノー [13ページ]

 

それらはわれわれを一ぱいに満たす。われわれはそれらを整理する。それらは崩れる。ふたたびわれわれは整理する、と、われわれが崩れ去る。
― 出典: ドゥイノの悲歌 (岩波文庫) リルケ [68ページ] 


最も大切に思うものによって、轢断されていく魂。だが轢断が、それを轢断の理由としたとおり、彼は待っていたのかもしれない。自分の残骸を。その飛散を。最後の轟きの中でふるえる胡桃の、懸命にこちらへ向ってうなずくのを、たしかにぼくは見たような気がする。
― 出典: 胡桃の戦意のために (1982年) 平出隆 [89ページ] 


その影といると、霧雨の帷りを分けて危ない方へ、どこまでもどこまでも歩いてゆける気がした。もう瀝青の花はだらしなく崩れて落ち、塀という塀はふやけてふるえていた。自分の胸から指を抜くと、私は思い切ってその手をとって、ふたりながら宙へ らあ と意味なく翻ろうとした。だが、それよりはやく降りはじめた雨の実の、道を打つ音よりなおはやく、閃光がすべての跳躍を打ち消していた。
― 出典: 胡桃の戦意のために (1982年) 平出隆 [58ページ] 


大藪を抜けちまうと、青く明るく、広々していますんで、ひとまずしゃがんで、空を見ていましたでさ。一旦は飛び散りそうになった自分が、だんだんと元へ集まってきて、ここに自分がいるとわかりましたの。今夜が澄んでいるように、俺の体じゅうが澄んでいると思ったですに。普段よりかよく見えたです。星は燃えているもんだとわかりましたの。
― 出典: 弱い神 小川国夫 [386ページ] 


特急の中でわたしはふたたび少し眠った。目をさますと窓の外はすでに暗かった。雪国へ抜ける国境のトンネルを、わたしは居眠りしたまま通り過ぎたらしい。
― 出典: 夢かたり (1976年) 後藤明生 [333ページ] 


そのあと話はわからなくなった。わたしが忘れてしまったのではなく、たぶん雑煮の話から何かの話に変ったのだろう。わたしたちはわざわざ雑煮の話をするために酒場に集ったのではなかった。しかしわたしはときどきそのときの雑煮の話を思い出した。
― 出典: 夢かたり (1976年) 後藤明生 [53ページ] 


午後七時半。メカニックス図書館に数時間いた。戻ってみると、部屋が楽しそうに見えたので、「ハロー」と四方の壁に声をかけた。これからウィンナーソーセージ入り豆スープをあたためて食べ、熱いお茶を飲み、ヴァン・デル・ポストのカラハリ砂漠ブッシュマンについての本を読むつもりである。
― 出典: 波止場日記―労働と思索 エリック・ホッファー [66ページ] 


ものを書くときに経験する苦しみと難しさとを忘れずに銘記しておくべきである。過去に経験した苦しみの記憶は、信じられないほどうすれている。消え失せた記憶がよみがえるのは、再びその経験をくりかえしているその瞬間のみである。二冊の本を出版して以来、著述家の役割をあたえられ、まったく馬鹿げたことに言葉は指先から流れ出るもの、と考えてしまっている。実際には、一つ一つの文章に頭をしぼらなければならないし、価値のあるものを書こうとするならば一つの観念を長いあいだ一心に考えなければならないのである。
― 出典: 波止場日記―労働と思索 エリック・ホッファー [36ページ] 


今日、私たちが瞬間ということから始めなければならなかった理由がここにあります。「この瞬間」、一瞬が革命的に回転し、場面は反転ないし急変します。彼のもとに死が到来した瞬間がすでにありました。すべてがプログラムされていて、死は不可避的かつ運命的で、したがってすでに到来していました。しかしながら、このような「到来していた」のうちで、ある別の瞬間が、世界を、実存を、恍惚そのものを、いわば転覆させることになります。
この瞬間を、彼は証言することになります。
「この瞬間、世界へ突然回帰した……」
― 出典: 滞留 (ポイエーシス叢書 (45)) ジャック・デリダ [106ページ] 


それゆえこの瞬間、『私の死の瞬間』は私たちに一つのレシあるいは証言を約束しますーーその証言に署名している何者かは、可能な限りあらゆる調子で、あらゆる時制で私たちにこう言います。私は死んでいる、あるいは、私はいますぐ死んでしまうだろう、あるいは、私はそのときすぐに死んでしまいそうだった、と。誰かが話そうとしています、私たちに話そうとしているのです。彼の死についてだけではなく、ラテン語のdeの意味で、彼の死から、つまり彼の死より話そうとしています。
― 出典: 滞留 (ポイエーシス叢書 (45)) ジャック・デリダ [64ページ] 


ニーチェは『道徳の系譜』において、<能動的な健忘>を魂の安らぎと秩序の番人と呼んだ。その能動的な健忘は、不断に懲罰が存在していれば、阻むことができる。なにかを記憶に留めておかねばならないがゆえに、ヴァイスは文学作品を書き、煉獄に踏み入る。かのダンテの『神曲』において、そのとば口で天使が罪の意識の徴として、剣の先でダンテの額に罪(プッカートム)のPの字を刻んだ、その煉獄だ。よりよき人間となる真の条件を見いだす道程に与えられる課題は、苦痛を辛抱づよく絶え抜くことによって、皮膚に刻まれた文字の意味をさぐることである。--まことに古風な方法というわけだ。かの拷問機械もこの原則にのっとって作られていた。流刑地を訪れた男が、いまや失墜した前司令官の発明になることを聞き知る、あの機械である。ニーチェは『道徳の系譜学』でつぎのように書いている。「おそらく、人間の先史時代の全体をつうじて、人間の記憶術ほど怖るべく不気味なものは一つとしてなかったかもしれない。何かを烙きつけるというのは、これを記憶に残すためである。苦痛を与えてやまないものだけが記憶に残るのだ。」

― 出典: 空襲と文学 (ゼーバルト・コレクション) W.G.ゼーバルト [165ページ] 


……物たちは互いにいくらか身を寄せあった。それはあの静止と、それにつづくひそやかな沈殿の瞬間だった。ちょうど飽和液の中でいきなり面が整い、結晶が形づくられるときの…。二人のまわりに結晶が生じた。
― 出典: 愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑 (岩波文庫) ムージル 


多くの著作物がわれわれの心を打つのは、もう終りにしたりと焦立ち、終りにしなければ再び昼の空気に立ち戻れぬのではないかと恐れて、余りにもいそいでそこから立ち去った作者の足跡が、なおもそこに認められるからだ。あのあまりに偉大なかずかずの作品、そしてそれを支えている人間よりさらに偉大な作品においては、常にあの至高の瞬間、あのほとんど中心的な時点が予想される。もし作者がそこに居続ければ、彼はその偉大な仕事をしつつ命を失うことになるのを、われわれは知っているのだ。われわれは、雄々しい偉大な創造者たちが、まさしくその死点から遠ざかるのを、だがそれも、ゆっくりとほとんどおだやかな態度で遠ざかるのを眼にするのだ。そして、少しも乱れぬ足取りで、表面へと立戻ってくるのを、眼にするのだ。次いで、そのようにして描かれた半径の、しっかりとした規則正しい線が、その球体の完全さに応じて、その表面を、丸く描き出させるのだ。
― 出典: 文学空間 モーリス・ブランショ

 

エルンストの心は、そのあいだはるか遠いところへ行っていた。パンケーキに何分間もフォークを直角に突き刺したままだった。とちゅうでぽつりと、切手を集めたものです、と漏らした。オーストリアやアルゼンチンの。それからまた黙りこくって、煙草を一本吸い、消ししなに、はるかに外つ国だという気がしたのだろうか、あたかも過ぎ去った人生のすべてをいぶかしむふうに、<アルゼンチン>という語をもう一度くり返した。この日の朝、もしもなにかささいなきっかけさえあれば、私たちはふたりとも空を飛ぶことを学んでいたろうと思う。
― 出典: 目眩まし (ゼーバルト・コレクション) W・G・ゼーバルト


しかし、錯乱が臨床状態に陥ってしまったら、言葉はもはや何ものにも達することはないし、人はもはや言葉を通して何一つ聴くことも見ることもないーーみずからの歴史と色彩と歌を失ってしまった夜のほかには。つまり、文学とは健康であることなのだ。
― 出典: 批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10) ジル・ドゥルーズ 


作家のひとりひとりについて、こう言わねばならぬーー彼は見者であり、聴く人、ただし、「見まちがい言いまちがった」人であり、色彩画家にして音楽家なのである、と。
― 出典: 批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10) ジル・ドゥルーズ 


手の中で消えたり光ったりする四角から、あなたの言葉が聴こえたり聴こえなかったりすることが、常にわたしの手の中で起こっていて、わたしの手の中には言葉と光が同時にあって、あなたの言葉がこうして届くときは、それはいつも光の中からのことである。
― 出典: 先端で、さすわさされるわそらええわ 川上未映子 


業の重圧を感ずるということにならぬと、霊性の存在に触れられない。これを病的だという考えもあるにはあるが、それが果してそうであるなら、どうしてもその病気に一遍とりつかれて、そうして再生しないと、宗教の話や霊性の消息は、とんとわからない。病的だという人は、ひとたびもこのような経験のなかった人なのである。病的であってもなくても、それには頓着しなくてもよい。とにかく霊性は一遍なんとかして大波に揺られないと、自覚の機縁がないのである。平安朝時代には、日本人はあまりに原始的であった、また感覚的であった。感情の世界へもいくらかはいったが、まだ霊性には触れなかった、物のあはれに止まるよりほかなかった。
― 出典: 日本的霊性 (岩波文庫) 鈴木大拙


記憶とは鈍磨の一種だろうかとたびたび思う。記憶をたどれば、頭は重く、目は眩むのだーー時の無限のつらなりをふり返るというより、あたかも、天を衝いてそびえている摩天楼のはるかな高みから、地の底を見下ろしているかのように。
― 出典: 移民たち (ゼーバルト・コレクション) W・G・ゼーバルト 


時間とは心のざわめきにすぎないのです。過去もなければ未来もありはしない。少なくともわたしにはありません。
― 出典: 移民たち (ゼーバルト・コレクション) W・G・ゼーバルト 


記号一般の根源的に反復的な構造のために、「実際の」言語が想像的な言述と同じくらい想像的なものである可能性、そして想像的な言述が実際の言述と同じくらい実際的なものである可能性は、大いにある。表現にかかわる場合であれ、指標的な伝達作用にかかわる場合であれ、実在と表象=代理の、本物と想像的なものの、単純な現前性と反復のあいだの差異は、つねにすでに消失しはじめているのである。この差異を維持することは(…)、現前性を救い出し、記号を還元=抹消したり逸脱させたりする執拗な欲望に応じているのではないだろうか。記号とともに、反復の力のすべてを還元=抹消したり逸脱させたりする執拗な欲望に応じているのではないだろうか。それは、反復の、表象=代理の、現前性を覆い隠す差異の——保証され、補強され、構成された——効力の中で生きつづけることでもある。
― 出典: 声と現象 (ちくま学芸文庫) ジャック・デリダ 


「そうなんや」
「うん」
 信号が変わって、わたしとゆきちゃんは歩き出した。横断歩道を三分の一ほど渡ったところで、犬とすれ違った。茶色い雑種だった。ちゃっちゃっちゃ、という爪の音が冷たい空気に響いた。それは心に残る音だった。ゆきちゃんはしばらくなにも言わず、なにか考えてるみたいだった。
― 出典: 次の町まで、きみはどんな歌をうたうの? (河出文庫) 柴崎友香 [141ページ]

覚書002

今まで、何度も何度も、座席が開け閉めされてきたのだ。この席に座った人間たちが皆、もしも今、俺の膝の上に乗るとしたら、天まで届きそうなのだ。そうして、その人たちの聴いた音楽が全て鳴り出したら、それはきっと、色が重なると黒になるのと同じように、音が重なり過ぎて無音のようになるのに違いない。
― 出典: 男と点と線 (新潮文庫) 山崎ナオコーラ [178ページ] 


彼は少しずつ闇と沈黙にたどりつき、そこに寝そべった。非常に長い時間かけて、なけなしの判断力で、彼は闇と沈黙が永遠に続くと判断する。そして、ある日声が聞える。ある日!ついに。そしてついに声は言う、おまえは闇のなかで仰向けになっている。これが最初の言葉だ。彼が自分の耳を信じられるようになるまでの長い休止、そしてもう一度同じ言葉。
― 出典: 伴侶 (りぶるどるしおる 2) サミュエル・ベケット [26ページ] 


もう一つの特徴はくどい繰り返しだ。いつまでもほとんど変わりのない同じ「過去」。まるで、その繰り返しを彼が自分のものにしてしまうよう、無理強いするみたいに。そう、私は思い出す、と彼に白状させようとして。そのうえ、彼にたぶん一つの声をもたせようとして。そう、私は思い出す、と彼につぶやかせようと。それは伴侶としてずいぶん役立つだろう。とぎれとぎれにつぶやく一人称単数の声、そう、私は思い出す。
― 出典: 伴侶 (りぶるどるしおる 2) サミュエル・ベケット [23ページ] 


この言説を、一つの開始のために自由でいられるように、そのあるところに、つまり自己のはるか後方に放置することなのだ——この開始は純粋な起源である。[…]なぜなら自分自身に空洞を掘ることによってこの空虚を解き放ったのは、過ぎ去った言語だからである。反省はなくて忘却が、矛盾はなくて消去する異議申し立てが、和解はなくて反芻が、自己の統一性を孜々として獲得することを目指す精神はなくて「外」の無限定な腐蝕が、ついに啓示の光明を放つ真理はなくてつねにすでに始まっていた言語の輝く流れと難破が。
― 出典: 外の思考 ミシェル・フ-コ- [25ページ] 


文学とは、その燃えるような顕現の点に至るまで自己に近づいてゆく言語ではなく、自己から最も遠いところに位置する言語なのであり、この「自己外」化のうちに言語がそれ固有の実体を明らかにするにしても、このだしぬけな光明が啓示するのはしりぞきであるよりは隔離、記号のそれ自体へのたち帰りであるよりは拡散なのである。
― 出典: 外の思考 ミシェル・フ-コ- [15ページ] 


あの日の自分の行動は正しくなくって、きっと母さんの呼ぶ方に引き返して母さんを落ち着かせてやるべきだったのに、自分は虫取り網を持ってそのまま走り続けて、どこにどうやって行くかなんて別にどうでもよかったんだ、ただ走るのが心地良かったんだ、僕の思考が誰にも邪魔されない時に普段起こるように、僕は目に見えるもの全てをただ考えていたんだ。
― 出典: 馬鹿たちの学校 サーシャ・ソコロフ [62ページ] 


妖精は、すべての訳を嚥み込んでいる、女が男に云つたこと、男が女に云つたこと、彼ら二人が、遠く離れているだらうこんな時刻に、彼ら二人の眼ざしが、天つ空なるその星で、相会すべく、約束を結んだことを。さうしてもしも、彼らにとつては不幸にも、妖精にとつては幸福にも、彼ら二人の、いづれか一人が約に背けば、——その時、その星は流れて、とある池の、藺草の茂みを眼ざして飛ぶのを。
― 出典: 夜の歌―散文詩 (岩波文庫 赤 557-1) フランシス・ジャム [83ページ] 


「ほら、見なさい。もう消えてしまう」
― 出典: わたしがいなかった街で 柴崎友香 


バス通り沿いの歩道の柵には、まだ花のついていないジャスミンの蔓が絡まって生け垣のようになっていた。ジャスミンの白い花が咲くことを知っているのは、わたしが前にもこの道を歩いたことがあるからで、季節が繰り返すからだ。
― 出典: わたしがいなかった街で 柴崎友香


殺し文句である。田村の詩も、田村という人間も、もしかしたら田村の人生も、殺し文句で出来上がっている。そしてまた、殺し文句の詩人は女を殺すだけで愛さないのだった。言葉で女を殺して、うまいこと利用して、面倒臭くなったら逃げ出すのだ。殺し文句の詩人が大切にしているのは言葉だけである。言葉に較べたら、自分すらどうでもいいのである。
― 出典: 荒地の恋 (文春文庫) ねじめ正一 [28ページ] 


何の根跡もなく別れたいね。何も思われたくない。私に関して、何も覚えないでください。その方がいいのです。そのために、毎日どのようにふるまえばいいか考える。それなのに、時々別れた人と夢の中の鉄橋で手をつなごうとしていたりする。鉄橋の下の川のあまりにあざやかな緑の水と強風。いつのまにか二人は、二両の連結車両になっている。強風なのはそのためだ。川幅は果てしなく広く、鉄橋は高い。もっとしっかり抱いて、落ちそうだから。電車になったのに私は言う。緑の水面が光る。
― 出典: マッチ売りの偽書 中島悦子 [84ページ] 


私は自分だけでものを考えることはない。/この文章だって/ふたりで相談して書いたものだ。/だから私はいつも独りで/死ぬほど苦しまなくてはならない。(「ことば」)
― 出典: コールドスリープ 小川三郎 [65ページ] 


私たちは森で火をたいた。誰も眠らなかった。その夜は歌い踊って過ごした。そして互いに過去の冒険を語り、失った仲間を思い出した。なぜなら人間には、かげりのない喜びを享受することなど許されてないからだ。
― 出典: 休戦 (岩波文庫) プリーモ・レーヴィ [300ページ] 


ーー島村さん、伝染りましたね。お遊びもそこまで行くべきです。女の体を神秘めかすのは禁物です。子宮は深いもんじゃない。肉の壁にぶつかってそれで終りです。その壁のかなたに、タイ、ビルマ、インド、東パキスタン……。
― 出典: 青銅時代 小川国夫 [127ページ] 


(分割されたまま断面をあふれていく風景。/そこに盛り上がる樹木の、猛々しいそよぎに重なって)//輪郭というものが/おしなべて悲哀によって張りつめているのは/なぜか。/なぜ、はかなさはいつも/光あるものと差し交わそうとするのか。「作品Ⅰ」
― 出典: 花・蒸気・隔たり 河野道代 [14ページ] 


酒をのんで歩くのは、堀田善衛につきまとっている習性であって、彼の場合はひとびとを眺めながらいわば都会の群衆であるひとびとのなかを歩く。しかし、島尾敏雄が歩くのはひとのいない場所である。闇の匂いをかぎながら、闇の肌を撫でながら、何処までも歩く島尾敏雄につきそっていると、やがてこの人物がいわば物質の根源に酔いしれて歩いているのだと解ってくる。これは私達のあいだに数少ない、たいへん珍重すべき最後の酔い方であって、宇宙最後の酔っぱらいとして、彼を讃歌したい気分を私は抑えることができないのである。
― 出典: 酔っぱらい読本(1) 吉行淳之介 [87ページ] 


わたしは取り調べのあいだ中、一つの声に捉われていた。耳の中でくりかえし鳴り響くその声によって、警官たちの罵声はかき消された。だからといって、わたしが救われていたわけではない。それどころか彼女の声はわたしを責め続けて、ほんのわずかでも気持ちが逸れるのを許そうとしなかった。事件から丸二年が過ぎた今も、その声はわたしを責めるのをやめていない。
― 出典: 静かな夜 (佐川光晴作品集) 佐川光晴 [111ページ] 


もう何世紀にもわたって千言万語が費やされ、無為な壮麗さの地平は詩のために疲れきっている。月、池、雲、桜、そういったものだって少し休ませてやってもよかろう。それらにふさわしい静寂に返してやろうと思ったのだ。一茶が書く決意をしたのは、この決意によって自分の人生がさほど変わると思っていなかったためではあるまいか。先達が言ってきた以上のことを言うわけではない。ただ身を隠し、自分の人生を、いずれにせよ逃げ去る時の平穏な無意味さのうちで疲弊させればよいのだ。
― 出典: さりながら フィリップ・フォレスト [59ページ] 


町中のとろけるチーズとけかかりゼロ対ゼロで後半戦へ / 本当はあの日ぴかりと消えたのか我も級友たちも小石も(猛暑とサッカー)
― 出典: 裏島―石川美南歌集


鼻に汗入って走るのが辛い コーナーキックの柴田がとおい / 思ひ出づることにも慣れて蝉の音に時折混じる人の死ぬ音(猛暑とサッカー)
― 出典: 裏島―石川美南歌集


結婚四十二年、共白髪の老夫婦といえば、ひっそりと肩をよせ合ってテレビを見るのもいっしょ、食べ物も同じ好み、話題はツーカーで言葉はなくとも思いは通じ合う——というのはドラマかお芝居の話。彼と私は孤りと孤りだった。私は中桐雅夫のパートナーであって、白神鉱一の妻ではなかった。かわいそうなひと。/五年前(一九七八年)、青梅の病院で心臓の止った彼に「奥さん、名を呼んで」と看護婦さんがいうのを私は拒否した。Come back to me に don'tを付けなくてはいられなかった。
― 出典: 美酒すこし (1985年) 中桐文子


このように見れば雪の結晶は、天から送られた手紙であるということが出来る。そしてその中の文句は結晶の形及び模様という暗号で書かれているのである。その暗号を読みとく仕事が即ち人工雪の研究であるということも出来るのである。
― 出典: 雪 (岩波文庫) 中谷宇吉郎 [162ページ] 


思うに、世界は、循環する水でこと足りている。それは多すぎもせず、また、少なすぎもしない。しかるに、世界の「外」では、水は過剰にあふれている。世界の「内」へ向かって決壊し、氾濫しようと、荒々しくさかまいている。― 出典: 領土 諏訪哲史 [39ページ] 


実在しないものを夢みるとき私は眠り、実在しそうなものを夢みるとき私は目覚める。
― 出典: 不穏の書、断章 フェルナンド・ペソア [87ページ] 


ここはあまりにもヘヴンに近いから/何も集まらないから/ただ一つの名前の磁針が狂う/たたかわない/という、妖精の兵器
― 出典: 片鱗篇 (新しい詩人) 石田瑞穂 [65ページ] 


私はいかなる政治感情も、社会感情ももっていない。とはいえ、一種の非常に強い愛国的感情はある。私の祖国、それはポルトガル語だ。
― 出典: 不穏の書、断章 フェルナンド・ペソア [48ページ] 


いいか、権太のことを考えてくれ。権太はの、お前さんの悲しむのを見て悲しんだ。しかし、お前さんの悲しみと権太の悲しみは種類が違う。権太の悲しみの中には喜びがある。お前さんと一緒に、お前さんの悲しみを悲しむことができる喜びがあるのさ。
― 出典: 遠つ海の物語 小川国夫 [87ページ] 


蝶ふれしところよりわれくづるるか
― 出典: 未踏―高柳克弘句集 高柳克弘 [46ページ] 


特急の浮遊感覚ぼたん雪
― 出典: 未踏―高柳克弘句集 高柳克弘 [45ページ]

 

背後を見れば、ついさっきまで有ったはずのものがことごとく無くなっている。そればかりか、うかつに振り向けば、のがれてきたばかりのものに呑みこまれそうな恐怖に、追いつかれかねない。そして目の前には、劣らず不可解にも、日常がある。変わり果てた境遇でも、日常は日常である。目の前に、手もとに、何かがある。
― 出典: 蜩の声 古井由吉 [241ページ] 


書き留められたものがおまえと/バルコンに座っていて
― 出典: ヴェロニカの手帖 (群像社ライブラリー) ゲンナジイ・アイギ [102ページ]

 

「そう。自分の作った歌だけど、この歌を読んでいると、なんとも言えない生き甲斐を感ずるんです。現在の僕は、無事です。平穏です。幸福です。明るく生きています。」
― 出典: 上林暁傑作小説集『星を撒いた街』


家族が所有している故人の写真を集めて、子供に、大きくなったらすべて与えると約束をすること、その中の数枚を与えることは、非常に良いことである。(…)子供は自分の喪を助けるために、かつて故人が所有していたオブジェを必要とするのが普通である。子供は、オブジェを通して、故人を受け継ぐ者となるのである。
― 出典: 喪の悲しみ (文庫クセジュ961) マリ=フレデリックバッケ [159ページ] 


最初しなければならないのは、父親や母親、兄弟姉妹など、あらゆる人の死は、子供とは何の関係もないところで起こったことなので、自分が責任を感じる必要はないと伝えることである。子供は、言葉や欲望が行動と同じくらい影響を与えるという魔術的思考を持っている。(…)そのため、子供はつねに、そして非常にかたくなに、自分に責任があるのだと考えている。子供にとって、突然に訪れた死は、自分が原因に違いないのである。
― 出典: 喪の悲しみ (文庫クセジュ961) マリ=フレデリックバッケ [157ページ] 


自分が望んだものを、彼は自分が見出したもののために犠牲にし、そしてこの罪は巧みに隠蔽されたのだろう。
― 出典: ヴァレリー集成Ⅲ (ヴァレリー集成(全6巻)) [169ページ]


夢の外へ出るためには、思考を外へ出さねばならない。自閉した表の中では全てが広がり続けるだけだ。
― 出典: これはペンです 円城塔 [143ページ] 


「どこにでもいるのですから、いずれ出会わぬわけにも参りません」
― 出典: これはペンです 円城塔 [108ページ] 


「こちらオリオン座のアルファ星、/私は旅の途中、私はいま星なの、/私はあなたを永遠に忘れてしまったわ。(…)三百年たったら電話して」(「星のカタログ」)
― 出典: 雪が降るまえに アルセーニー・タルコフスキー [80ページ] 


かの白いドキュメントが耀いている。/多くの影が そこに動き 交錯する。/すべてが 署名しようとするのだ。
― 出典: 悲しみのゴンドラ トーマス・トランストロンメル [72ページ] 


赤煉瓦の倉庫の中では、梱包された綿花が自然発火を待っている。
― 出典: 空にはメトロノーム 森内俊雄 [43ページ] 


彼はわたしの頭に触って、ナイフをそっと蝶みたいに動かすと、髪の房を少しだけ根元から切り取って、わたしの髪でささっと蝶結びを作るとナイフを縛って閉じた。開かないようにしてから、わたしにナイフを持たせてくれたけど、わたしが結び目を引っ張ると、フロッギーはナイフを取り上げて、空になった花かごを首からぶら下げて畑に戻っていった。
― 出典: 紙の民 サルバドール・プラセンシア [37ページ] 


細筆一本、線だけで挑んだ庭園風景は、あらゆるものをゆるがせにしていなかった。松の葉のしげり、草花一本いっぽんのうねり、ミズスマシやカエルのような小さな生き物たちまでを、みな等価の線であらわし、藤牧は時間を共有するすべてのものを、紙のなかで肯定してゆく。 神がかり的な画力と、憑かれたような集中力には、ただただ驚嘆するよりない。とぎれることなく、対象に寄ったり引いたりしながら一本の動画のようにうつろう風景には、彼がそこにいて息をした時間が、しっかりとうつりこんでいた。
― 出典: 君は隅田川に消えたのか -藤牧義夫と版画の虚実 駒村吉重 [291ページ] 


一度描かれた道筋は簡単に記憶に残るが、これはわれわれにとってたいへん重要な意味がある。これによってわれわれは暗闇でも字が書けるのである。
― 出典: 生物から見た世界 (岩波文庫) ユクスキュル [30ページ] 


あの詩人が、あなたにとってはじめての詩人だった。
― 出典: 手・足・肉・体―Hiromi 1955 伊藤比呂美 [9ページ]


きみは、夏じゃないんだ。絵を画くのがどういうことかきみは知らないんだ。ぼくはきみを愛さなければいけないのだろう、賢くなるためには。しかし、そうすればぼくは、時を失うだろう。
― 出典: 美しい夏 (岩波文庫) パヴェーゼ [117ページ] 


金剛から葛城を東に望む野良道を、背から陽に温くもりながら行く間、右眼の内に幾度もかるい眩みの感覚が点じて、行く手の宙空に物の形にはならぬ白っぽい影がぽっかり掛かり、匂うように薄紅が差して、せつないようになって見つめれば、ゆっくりと視野の外へ逸れていく。明け方の寝覚めには、夜具の乱れの間から、昨夜の肌のほのかに白らむのを、夢うつつに見ながら自分の余命を、甲斐もなく数えていた。家に着いたら、冷飯を浅漬であっさり頂いて、ひとやすみしたいものだ、と春の土の香りを吸って歩みを進める。
― 出典: 聖耳 古井由吉 [49ページ]

 

今や私は忘却の霧のなかから、多くの宝を呼びもどしている、これは退行ではなくて、帰還だ、そのうちに私は、自分の生涯よりもはるかに広い時間の中に自分を解きはなつことができるだろう。
― 出典: 虹よ消えるな 小川国夫 [27ページ] 


眼球の内の気体は半分まで減って、明るいところでうつむけに見れば、中心に揺れ動く水玉のような円となって映り、点眼の時にガーゼを取って顔を上げれば、眼球の下半分を満たして、その吃水が遥かな水平線を想わせた。まるで淡い春の日の海だ、と他人事に感嘆したこともある。じつは気体は眼の上の半球に浮いているのだが、脳を通して逆転して知覚されている。
― 出典: 聖耳 古井由吉 [20ページ]

 

垂直性は水平性に敗北するし、敗北せざるをえない。詩人はだれよりもそのことを知っていたはずである。だから、垂直が寝そべるとき、水平もたんなる水平ではなくなるのではないか、という希望に賭けていくほかはなかったのかもしれない。
― 出典: ベルリンの瞬間 平出隆 [93ページ] 


終点まで乗りてゆかうと君が言ふああいいよ他に誰も居ない
― 出典: たとへば君―四十年の恋歌 河野裕子 [201ページ] 


ひとりのひととの出逢いが私を決定的に短歌に結びつけてしまった。以後、多くの相聞歌を作り続けて来た。恋人に与えるただ一首の相聞歌を作ろうと思ったこともあったが、とうとうそれはできなかった。誰かの為に、何かの為に、という大義名分では決して短歌は作れるものではない。
― 出典: たとへば君―四十年の恋歌 河野裕子 [3ページ] 


思い出が決して死なないことを僕たちはすでに知っている。それにもし僕たちが何ものかであるとしたら、僕たちは何かの希望であることも。
― 出典: 鷲か太陽か? (Le livre de luciole (45)) オクタビオ・パス [86ページ] 


「ぼくの書いたようなものじゃないって、どういうことだい?たしかに、何もかも変化して行く、だが六ヵ月前にきみは…」「六ヵ月前ね」ジョニーはそう言いながら欄干から降りると、肘をついて両手の上に顎を乗せる。(…)「星の名はニガヨモギだ」とジョニーは掌に語りかけている。「そして彼らの死体は大都会の広場にうち捨てられるだろう。六ヵ月前に」
― 出典: 悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫) コルタサル [156ページ] 


もう座ってよろしい、もっと勉強なさい!と数学の時間に言われた。でももう過ぎたこと、忘れよう。今、外では今年最初の夕立が繰り広げられている。さわやかな西風が私を撫で、タイムの香りと鉄道の汽笛を運んでくる。(…)自然は私を愛している!自然は私を慰め、約束をしてくれる。こういう日には、私は不死身だ。外側では微笑み、内側ではもっと自由に笑い、魂には歌、唇には小鳥のさえずるような口笛、そして私はベッドに身を投げて伸びをし、眠っている力をそっと隠す。西へ、北へ、どこへ行ってもいい。私には、確信がある!
― 出典: クレーの日記 パウル・クレー [19ページ] 


「いつものジャージだと思われてますけどね。オレはジャージは二つ持ってますからね。みんなオレが着てるのを同じジャージだと思ってますけど、実は二つありますからね」(中原昌也
― 出典: 男友だちを作ろう 山崎ナオコーラ [203ページ] 


わたし薔薇の木は大好きだった でも薔薇の木から好きだよなんていってもらえるなんて夢にも思わなかった
― 出典: バナナブレッドのプディング (白泉社文庫) 大島弓子 [201ページ] 


「あなたがどこかにいってもね。忘れずに他の人たちのために帰ってくるのよ。円を描くのよ、わかるわね?」
― 出典: 狼が連れだって走る月―La Luna cuando los lobos corren juntos 管啓次郎 [220ページ] 


わたくしのしっているこうした森のなかで、わたくしの祖父は道にまよってしまった。わたくしはこの話をきいて、忘れられない。それはわたくしがまだうまれぬときのことだった。わたくしのもっとも古い思い出は百年、あるいはもう少し古い。 これがわたくしの祖先の森である。そしてこれ以上はみな書物の知識である。
― 出典: 空間の詩学 (ちくま学芸文庫) ガストン・バシュラール [321ページ] 


星は光の重力にひかれてその周囲を回転するのだということをわれわれは理解する。太陽はなによりもまず世界の大きな灯火である。数学者たちはのちに、太陽は牽引する質量である、と決定することであろう。
― 出典: 空間の詩学 (ちくま学芸文庫) ガストン・バシュラール [294ページ] 


「小さなものは滑稽なものではなくておどろくべきものだ。童話をおもしろくするのは、プセがその小さなからだを利用して実現する常ならざる事柄である。かれはどんなばあいにも機知にとみ、いたずらだ。そしてかれは偶然おちいった苦境から、いつも勝ちほこって脱出する」/さきにわたくしは微小なものが大きさの隠れ家だといった。もしわれわれが活撥なプチ・プセに動的に共感するならば、微小なものが原始的な力の隠れ家となってあらわれる。
― 出典: 空間の詩学 (ちくま学芸文庫) ガストン・バシュラール [284ページ] 


花壇には霧がかかる夏の蓼科高原のとんかつ定食だった。バスを待つ/基本的に杉並区ではバスを待った。お新香がつく
― 出典: 山が見える日に、 田中庸介 [35ページ] 


真夏の太陽がぎらぎら/ぎらぎら/と照りつける真夏の、太陽がぎらぎらと照る。青い/ブルー、その墓は茂った。さつまいもが/ひからびた。真夏の太陽が真上から/頭上に照る。寺は寒く/ぎらぎらと照り続ける。気温が上昇する/連結するハワイ、船便で送られる誰かいませんか/真・夏・度・百・%、気分はいかがですか/妙ちきりん、気分はいかがですか。ぎらぎらする/日射病になる。寝る/
― 出典: 山が見える日に、 田中庸介 [23ページ] 


アオよ!/あーお/おれの肉から逃走しないでくれ/青よ!/おれはお前に死ぬまで用事がある
― 出典: 吉増剛造詩集 (現代詩文庫 第 1期41)  [25ページ] 


時間だとか距離だとか、そんなものはもうどうでもいい。みらいが僕のことをどう思っているのか、それだってもう、関係ない。僕はもう、みらいを追いかけると決めたのだ。
― 出典: 魔法少女を忘れない (スーパーダッシュ文庫) しなな泰之 [245ページ] 


「お別れは、つらいことでも悲しいことでもない。ただ、ちょっぴり寂しいだけ」
― 出典: 魔法少女を忘れない (スーパーダッシュ文庫) しなな泰之 [159ページ]

 

彼は今まで、二日間人気のない山中を走っていたので、怪我をして、いたわられながらこんな場所へ連れて来られて、人心地がついたような気がした。彼は万事に惚れっぽい状態になっていた。
― 出典: 生のさ中に (1978年) (講談社文庫) 小川国夫 [165ページ] 


しかしながら、「終わりなき対話」が最終的にわれわれに教えてくれるのは、このような条件のもとでこそ語るということ、つまり、語りえない何かにけっして辿り着けないどころか却ってそれを裏切ることになってしまうという救いようのない状況においてこそそれについて語るということが、「われわれに残された最後のチャンス」なのだ、ということである。
― 出典: 文学のミニマル・イメージ モーリス・ブランショ論 (流動する人文学) 郷原佳以 [306ページ] 


確かに「白い余白」とは沈黙の隠喩であるが、その沈黙とは、運動を生み出す創造的な沈黙である。「沈黙、そのおかげでわれわれは話すことができるのだか」と、ブランショは述べている。
― 出典: 文学のミニマル・イメージ モーリス・ブランショ論 (流動する人文学) 郷原佳以 [257ページ] 


それは、肯定的な応答であるだろう。少なくとも、肯定することを希望しようとする応答であるだろう。ブランショは統一性に抗しながら、にもかかわらず(malgre tout)文学は可能だと信じていたのであり、そして、「書物の不在」であるような文学に人間が耐えられることを、心の底から願っていたのである。
― 出典: 文学のミニマル・イメージ モーリス・ブランショ論 (流動する人文学) 郷原佳以 [304ページ] 


「解った、きみを愛するために同程度に愛するものを殺さなければならない、つまり詩のことだ」
― 出典: “孤絶-角” 岸田将幸 [71ページ] 


わたしの言うべきことはこうだ、「わたしたちは見送る」。そして、「ここまでだ」
― 出典: “孤絶-角” 岸田将幸 [14ページ]

 

ガス灯が「生命の息吹き、暖かさ、近しさ」を感じさせるのと対照的に、電気照明は「硬さ、冷たさ、距離をもたらした」。
― 出典: ベンヤミンの迷宮都市―都市のモダニティと陶酔経験 近森高明 [100ページ] 

覚書001

編集者の読みには、著者と読者の顔が見え、肉声が聞こえていなければなりません。それに対して校正者の読みは、つきつめていえば、生身の人間のいっさい介在しない世界です。(…)素読みでゲラの言葉と私とのあいだに一対一の信頼関係が生まれたとき、不思議な現象が起こります。校正する私の耳に、著者の肉声でもなくだれの肉声でもない、ある内的な声が聞こえてくるのです。それはゲラの言葉自身がもつ肉声としかいいようのないものです。
― 出典: 校正のこころ 大西寿男 [65ページ] 


[裁判員制度と言葉]
(…)ここでは、裁きとは〝懲らしめ〟だけではなく〝ゆるし〟の場であることが、市民感覚で示されているように思います。(…)あやまちを、ただたんに罰するのではなく、どうすれば目の前の被告席に立っているこの人が生きなおせるだろうか、どうしたら理不尽な傷を負わされた被害者が救われるだろうか、と問いなおすこと。そこには、あたたかなまなざしがあると、思うのです。
― 出典: 校正のこころ 大西寿男 [161ページ] 


出版界で、とくに編集の方に多いように思われますが、「編集者は著者の側に立って原稿を読む、校正者は読者の側に立ってゲラを読む」といわれ、(…)その言葉はある面で真実を語っていると思いますが、私はまた別の面を考えてしまいます。それは、「校正者は著者の側にも読者の側にも立たない。ただゲラの言葉の側にのみ立つ」という面です。私は、校正者として、こちらの面を大切に守っていきたいと思います。
― 出典: 校正のこころ 大西寿男 [103ページ] 


校正者は自分の存在、主体的な自分というものは押し殺さねばならないのか(…)しかし、そうではないのです。逆に、校正者は自分の言葉をもっていないといけません。しかも、しっかりと。さらに校正者は、読者という世界(外の世界)の言葉とも、〝もうひとつの自分の言葉として〟つながっていなければなりません。ちょうど一冊の本が、その外側に広大な〝書かれなかった言葉〟の世界を、影としてもっているように。
― 出典: 校正のこころ 大西寿男 [98ページ] より


校正のこころをもつことは、言葉を回復し再発見する力を宿すことです。その根本には、「積極的受け身」の態度があります。(…)校正のこころの第一歩、それは、言葉を信じ、言葉に信じられることからはじまります。
― 出典: 校正のこころ 大西寿男 [12ページ] 


目さえ開いておけば、常に誰かの絵画が現れる状態にいつからかなり、次第に目を閉じている時でさえ絵が見えるようになりはじめていた。きよ子にとっては、視覚的に思い出されるものが絵であり、実際に目の前にあるものはどんなに平面的であってもそれは彫刻だった。
― 出典: 寝相 滝口悠生 [206ページ] 


「多くのアメリカ・インディアンの文化においては、その社会の一員は、かならずいちどは、その社会の外へ出なくてはならないことになっている——人間の網の目の外へ、『自分の頭』の外へ、一生にすくなくとも一度は。彼がこの幻をもとめる孤独な旅からかえってくるとき、秘密の名まえと守護してくれる動物の霊と、秘密の歌をもっている。それが彼の『力』なのだ。文化は他界をおとずれてきたこの男に名誉をあたえる。」

けれども彼が自分の<トナール>に戻ってきたとき、それは昔の<トナール>でないことに気付く。幼虫の世界と蝶の世界がおなじ世界ではありえぬように、彼は永久にふるさとにはかえらないのだ。
― 出典: 気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫) 真木悠介 [164ページ] 


「自分の盟友から身を守るために」その盾を使うのだという。敵からではなく盟友からである。「盟友」ということばをドン・ファンはすでにみたように、ある種の幻覚性植物などに使う。それらは彼をあの「力の舞う場所」=異世界にみちびいてくれる盟友ではあるが、同時に彼をそのままこの世界からつれ去ってしまおうとする危険な伴侶なのだ。/その盾とは<人のすること>である。たとえばふつうの人にとっては、職場とか家庭といった「日常生活での活動」である。/まず呪術師は、ふつうの人間のようには「自分」の壁が固くないので、<力>と出会うと裂け目が開いて、この<力>を狩って自分の力とし、超人的なはなれわざでもやってのけることができる。/けれどもこの呪術師の強みは同時に弱みでもある。彼の裂け目はいつでも開きすぎて、自己解体への危険をはらむ。
― 出典: 気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫) 真木悠介 [131ページ] 


そして彼女には、自分がいまはアルベールのうちに、彼の愛児のように、世界の夜あけそのものにひたされ、冥界の始源の光にひたされ生きているような気がする。大きな水が不意に滝となる勢いでいまは彼女からひいて行ったあの夜の底から、彼女は少しずつ、無に帰していた自分を彼のうちで取り戻した。いまでもまだ目に見えるようだった、どうやって彼が、月の光の中を、静まり返ったまなざしと、原初の純粋さの漂う中にひたされたような何とも言えず卒直なしぐさとを見せて、彼女のところへやって来たか、どうやって彼が彼女を洗い、接吻し、着物を着せ、両腕をまわして彼女を支えたか、そしてそのときどれほど彼女は、空からおりて来た天使の一団に取り巻かれたよりも喜びを感じ、まどろみの中の意識がそうもあろうと思われるよりももっとみなぎりひろがる、もっとやさしい何かを味わい、純粋な、熱にうかされたような信頼のうちに決定的に彼に身をゆだね、彼の腕のほかには包みこんでくれるものなどありえない深淵の上で自分自身を絶対的に放棄してしまったか。
― 出典: アルゴールの城にて (岩波文庫) ジュリアン・グラック


尊にこうはっきり文治が見えるのだとしたら、周囲の風景が、命のあるなしを問わずこの土地の風景の織りなすすべてが、己の存在や輪郭や濃度を、かりにあるかなきかのごくわずかずつだとしても、文治に譲り渡して、そうやって文治がこの地上から消滅するのをかろうじて阻止している。そうはならないか? そうだ。そう考えることもできるはずだ。
― 出典: 獅子渡り鼻 小野正嗣 [32ページ] 


詩のことばは、いわば永遠の現在において紡がれる。詩人がことばを撚りあげ、詩句を編みあげようとするとき、通常の意味での時間は流れていない。詩のことばは瞬間をとどめ、現在を永遠のものとして語りだすことができるのである。哲学のことばはこれに対して、あくまで時間のなかで紡ぎだされるほかはない。哲学者はいつでも、時間のなかで永遠に追いつこうとする。経験の総体を賭け金として、時間を永遠の模像として語りだそうとするのである。それは、だから、およそ完結することのありえないこころみとなるだろう。
― 出典: メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス) 熊野純彦 [105ページ] 


「僕と一緒に旅に出ないか?」と僕はたずねた。「どこか。どこでもいい。きみの好きなところ。二人の文学専攻の学生が、現実世界で生活するってのはどうだい?」

― 出典: ガラテイア2.2 リチャード・パワーズ [78ページ


「でも、もしぼくが鉛筆を取っちゃったら、きみはここへ帰ってこられないかもしれないもの」「あたしは帰りたくないのよ。あたし、あなたみたいに、ここから出たいの」「うん、わかってるよ。出るためにはここへ帰ってこなくちゃならないだろ。つまりさ、きみがほんものの世界にいたんじゃ、ここから出られたかどうかわからないじゃないか、自由になったかどうかがさ。ぼくのいうことわかるかい?」「ええ。でもほんとの世界じゃ、あたしは自由よ。それにあたし海に行くの」マリアンヌはいった。

「ぼくはそれでもまだ充分じゃないと思うよ」マークはいった。「きみはむこうの海と同じように、こっちでも海に行きつかなくちゃいけないのさ。とにかくぼくは、そうしてもらいたいんだよ」
― 出典: マリアンヌの夢 (岩波少年文庫) キャサリン・ストー [326ページ] 


「夢の中でなにをしようと、どうってことないわよ」分別のある声が、なぐさめるようにいった。「ほんとの世界じゃ、なんの関係もないんだから」/「夢だって嘘じゃないわよ」ほかの声がいった。そしてマリアンヌには、そのことばが正しいことがわかっていた。「夢の中ですることは、目のさめている時にすることと同じようにほんとなのよ」
― 出典: マリアンヌの夢 (岩波少年文庫) キャサリン・ストー [196ページ] 


「それならぼくはどこにいるんだい?ぜんぜん存在しないのかい?ぼくはきみの見た夢の一部で、もしきみがぼくの絵をかいたり、ぼくの夢を見さえしなけりゃ、ぼくなんかどこにもいないんだ、ってきみはいうんだろ」「そうじゃないわ」とマリアンヌはいった。「そんなこといわないわよ。なぜって、あなたがほんとにいるってこと、あたしにはわかっているんですもの、あたしの夢の外にね。それに、あたしが家の中に人をかいた時、それがあなたになるんだってことはわからなかったのよ。あたしはただ、人をひとりこの家の中にかいたの。あたし、ここにぴったり合わない絵はかけないって感じたのよ。合わない絵はかけないし、合わないものをかいたら、ほかの絵になっちゃうと思ったの。だからね、もしあたしがだれかをかくとするでしょ、それがどんな絵でもね、人ならあなたにならなくちゃいけなかったのよ。なぜって、どういうわけだかあなたは前にここに来ていたんですものーあたしが絵をかく前にあなたはここに来てたのよ。ただあたしには、絵をかくまであなたの姿が見えなかっただけなのよ」
― 出典: マリアンヌの夢 (岩波少年文庫) キャサリン・ストー [107ページ] 


「しばらくは話せなかったね」「この方式を思いつくまでね」「そう、これは大発明。あなたは書くことでわたしの言いたいことを想像してくれる。声が聴えなくても、あなたは意味を聴いてるんだよ」「こうやって一生ずっと書いていこう、と今は思ってるけど」「どうかな?きっとすぐに素晴らしい人があらわれるよ。そしたら、こんなことをする必要なくなる」…「でも僕の方はやっぱりどこかで君の声を頼りにするだろうと思う」「いやそこは次の人にまかせます。また三角関係になっちゃうのはいやなの」「ああ、そうか。そうかもね」「ね?」
― 出典: 想像ラジオ いとうせいこう [134ページ] 


君は君だけが存在できるかのようにして存在している以上、ともするとこの本が存在することも、さほど必要ではなかったのかもしれない。君と知りあう前からこの本に与えるつもりでいた結語の思い出のために、私はもっと別のやりかたで解決できることを信じた。あの結語は私の生活に君が侵入したからといって、無効にはならなかったように見える。それどころか、君を通してして本当の意味をもたないし、どんな力ももたないものだ。
― 出典: ナジャ (岩波文庫) アンドレ・ブルトン [187ページ] 


もうおぼえていてはくれまいが、なにやら偶然のようにこの本の冒頭のことを知っていた君は、とてもタイミングよく、とても荒々しく、とても効果的に私のそばにあらわれ、私がこの本を「扉のように開いたまま」にしたいと思っていることを、そしてその扉からはおそらく君以外の人が入ってくるのをけっして見ないだろうということを、私に思いおこさせるようにはからったのだ。入ってくるのも、出てゆくのも、君だけだろうということを。
― 出典: ナジャ (岩波文庫) アンドレ・ブルトン [184ページ] 


 「私にはさっきからとてもよく見えはじめていました。それは本当にひとつの星、あなたがそこにむかって進んでいるひとつの星でした。あなたはまちがいなくその星にたどりつけるはずでした。お話を聞きながら、あなたの邪魔をするものはなにもないだろうって感じていました。なにも、この私でさえも…。あなたはあの星を、けっして私が見たようには見られないでしょう。」
― 出典: ナジャ (岩波文庫) アンドレ・ブルトン [82ページ] 


私は二人と共に行くだろうか。いや、決して行かない。行かなくてもいい、ということを、二人が最大の方法で教えてくれたから。
― 出典: ひらいて 綿矢りさ [167ページ] 


愛。常に発情している、陳腐な私の名前。黒鉛で書いても、真っ赤に染まっている。愛は、唾棄すべきもの。踏みつけて、にじるもの。ぬれた使い古しの雑巾を嗅ぐように、恐る恐る顔を近づけるもの。鰯のうす黒いはらわた、道路に漏れるぎらついた七色のガソリン、野外のベンチにうすく積もった、ざらざらした黒いほこり。恋は、とがった赤い舌の先、思いきり摑む茨の葉、野草でこしらえた王冠、頭を垂れたうす緑色の発芽。[…]私は、乾いた血の飛沫、ひび割れた石鹸。ガスとちりの厚い層に覆われた惑星。
― 出典: ひらいて 綿矢りさ [113ページ] 


二人は、《聖なる扉》で光り輝くセラピムの述べた言葉を、いつの日にか、誇らかに唱えられるよう、もう一度、宇宙の泥に沈んで試煉を受けたいという、燃えるような欲望を感じた。
― 出典: 世界幻想文学大系〈6〉セラフィタ (1976年) オノレ・ド・バルザック [226ページ] 


この奇妙な人物は視線を向けるだけで彼を霊の状態にして、《冥想》が学者を、《祈り》が信仰篤い人を、《幻視》が芸術家を、《睡眠》がある種の人々を連れ去る所に連れていくのであった。天上の深淵に赴くには、それぞれの道があり、それぞれの案内役があり、皆、共通に帰還の際の苦痛がある。
― 出典: 世界幻想文学大系〈6〉セラフィタ (1976年) オノレ・ド・バルザック [58ページ] 


「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つの言葉では、決して中間的なものを名指すことができないのだろう? それを名指すには二人が必要なのだろうか?」「そうだ。私たちは二人いなければならない。」「なぜ二人なのだろう? どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」「同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ」(終わりなき対話/ブランショ
― 出典: レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫) 内田樹 [106ページ] 


もしかしたらマルティンがぼくの家に越してくるかも。マルティンが絵を描き、ぼくが本を書く。それで人生がすばらしくなかったら」と、ジョナサン・トロッツは考えた。「そりゃ、おかしいよ」
― 出典: 飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫) ケストナー [119ページ]


5人の少年は、5つの小さな満月のように顔を輝かせた
― 出典: 飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫) ケストナー [96ページ] 


さしあたりは「映画館に」出かけようという戦いの誘い・・・私たち自身の属性であるはずの異邦の快楽の入り口=出口であり戦いの前線かもしれない場所への誘い・・・(訳者あとがき)
― 出典: 映画を見に行く普通の男―映画の夜と戦争 (エートル叢書) ジャン・ルイシェフェール [341ページ] 


そこで主人公ムルソーが「僕は普通の男です」「ごく普通の、世間の人と同じです」と繰り返すのを見逃してはならないので、ムルソーがそう言う時、彼が言っているのは文字通りのこと、自分はさしあたりこの世界に生まれ生き死んで行くという事実を引き受ける以外のなにものをも持っていない(その限りで世界を愛してもいる)「普通の者、尋常の人」に他ならないということ[…]「映画を見に行く普通の人々」は、社会生活の疲れの中でこの世界には存在しない癒しのユートピアを求めるように映画館に行くのではなくて、「社会」という傲然とした「別の狂気の組織から」しばし帰国するように、実在する領域としての「映画館=異邦」を再訪し続けるのだ、と。[…]そこから見た時シェフェールの如何にも孤独に沈潜した反時代的な試みは、膨張した「社会」のただ中で「普通のひと=異邦人」であることを固執する薄闇のノスタルジアの書ではなくて、一種の世界闘争の書の色合いを帯び始めるかのようです。(訳者あとがき)
― 出典: 映画を見に行く普通の男―映画の夜と戦争 (エートル叢書) ジャン・ルイシェフェール [339ページ] 


そこに映写されたものとして僕らが見る身体は、光の中に蠢き或いはそれに捕えられてあるのか、肉を持った第三の身体をその中に潜め持つ気配もなく、その姿が仮に僕らに似ているようであるにしても、そのせいで、逆に僕らの方が、彼らが幾度試みてもかたちになろうとしない茫漠としたイマージュになってしまう。[…]しかし、ここでの「知」をどう言えばいいのでしょうか、ほとんど定義できない何かとしか言いようがありません、と言うのもそれは、僕らの意志とはまったく関わらないままに生ずる、僕ら自身の一種の放棄、放棄というかたちでの委託によってであるかのように、僕らの彼岸であるそこで開示されるしかない何かだからです、僕らはその「知」を主体として持つのではなく、避け難い或る宿命として、ただ受諾するのです。
― 出典: 映画を見に行く普通の男―映画の夜と戦争 (エートル叢書) ジャン・ルイシェフェール [170ページ] 


フッサールは、こんなふうに述べている。「<下方の背景>〔=大地〕は、尽きることのない静止のうちにとどまりつづけるが、可動的なもの〔=対象〕としては統覚されないと言えるだろう。しかし、どんな場合にも、運動が構成されるのは、<下方の背景>の隠蔽と一体になってのことである。」
― 出典: これが現象学だ (講談社現代新書) 谷徹 [210ページ] 


フッサールの超越論的自我を、大仰に説明したり、大仰に批判したりする人がいる。しかし、フッサールは「小銭」で哲学をしようとしていたのである。抽象的に(高額紙幣で)考える前に、この事例のように具体的に(小銭で)考えないと、フッサールの声を聞き違えてしまう。
― 出典: これが現象学だ (講談社現代新書) 谷徹 [178ページ] 


さて、直接経験=志向的体験(志向性をもったマッハ的光景)のなかに、a、b、c、d、eという並木が見えているとしよう。[…]ここで、自我は、またキネステーゼ意識のK成分に動機づけられて、さらに新たな可能的対象gを見ようとし、そしてそれを現実に見る。つまり、c、d、e、f、gである。ここで、さらに新たな可能的対象hが指し示されるだろう。このように、次々に新たな可能的対象が指し示されていくのであるが、こうした指し示しが「地平」を形作る。
― 出典: これが現象学だ (講談社現代新書) 谷徹 [170ページ] 


Fが僕の腕に触れ、星を指さして、彼女が知っている限りの星々や星座の名を指し示しました。大熊座(シャリオ)、小熊座(ウールス)、僕は天の川だけしかすぐには見分けられませんでした。それと、夜の中に消えたミルク色のお話と。
― 出典: 映画を見に行く普通の男―映画の夜と戦争 (エートル叢書) ジャン・ルイシェフェール 


彼は1916年にフライブルク大学に移り、そこで若きハイデガーと出会った。しばらくしてフッサールハイデガーの哲学的・現象学的な素質の大きさに気づく。彼は真に「ともに哲学する」パートナーを見つけたと信じた。彼はハイデガーに言った。「あなたと私が現象学だ」。
― 出典: これが現象学だ (講談社現代新書) 谷徹


フッサール家の庭の戸口まで来たとき、彼(フッサール)の深い不快感が爆発した。『ドイツ観念論のすべてが私にはいつも糞食らえという感じだった。私は生涯にわたって』――こう言いながら彼は、銀の柄のついた細いステッキを振るわせてから、そのステッキを戸口の柱に押し当てて前屈みになった――『現実を求めてきた』」
― 出典: これが現象学だ (講談社現代新書) 谷徹


愛の告白とは、このような偶然から運命への移行であり、それゆえ告白には大きな危険が伴い、強烈な恐怖を引き起こすのです。もっとも愛の告白は、必ずしも一度きりのものとは限らず、それはときに、長く、散漫で混乱し、複雑なもので、告白された後にまた言い直され、さらに新たに言い直されることになりかねません。それは偶然が定着される瞬間なのです。今起きたこと、この出会い、わたしはこの出会いのエピソードを、わたしの相手に告白しよう。わたしは彼〔彼女〕に、たった今、わたしを拘束するような何かが起きたのだと伝えよう、
― 出典: 愛の世紀 アラン・バディウ [68ページ] 


何ものかをただ単純に、それがそんなふうに存在しているままに見ること。つまりは、取り返しのつきようもなく、しかしまただからといって必然的ではない仕方で存在しているとともに、そんなふうに、しかしまただからといって偶然的ではない仕方で存在しているままに見ること。ーーこれが愛である。/世界が取り返しのつきようもないことをきみが認識する瞬間、まさにその瞬間において世界は超越的である。/世界はどのように存在しているのかーーこのことは世界の外にある。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [141ページ] 


スペクタクルは、それ自体としては、《出現するものは善いものであり、善いものは出現する》ということ以外の何ものも言ってはいないのである。今日、スペクタクルの勝利が達成された時代にあって、思考がドゥボールの遺産から成果を収穫するにはどうすればよいのだろうか。というのも、スペクタクルというのは明らかに言語活動であり、人間のコミュニケーション可能性そのもの、あるいは言語的存在そのものだからである。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [100ページ]


有限なものの境界を無限定なものと化して、それが混濁し、なんであれかまわないものになるのを可能にする、このそれとは気づかない有限なものの震えことは、あらゆる事物がメシアの世界で遂行せざるをえなくなるちっぽけな位置移動にほかならない。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [74ページ] 


新しいのは、その話がメシア世界のなかに導き入れているちっぽけな位置移動である。[…]福者の鼻はほんの少しだけ短くなるだろうとか、食卓の上の瓶がきっかり二分の一センチ移動するだろうとか、外にいる犬が吠えるのをやめるだろうとかいった具合にである。ちっぽけな位置移動が関係しているのは事物の状態ではなくて、その状態の意味および限界である。その位置移動が生じるのはもろもろの事物の内部においてではなく、それぞれの事物とそれ自身とのあいだの余裕空間においてである。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [70ページ] 


これら二人の作家の世界になにか悪魔的要素のようなものが生き残っているとするなら、それはむしろ、スピノザが悪魔は被造物うちで最も弱く、神から最も遠く離れた存在であると書いたとき、心に思い描いていたかもしれないような形態においてであろう。そのようなものとしてーすなわち、本質的に力のない存在であるかぎりでー悪魔はなんらの悪もなすことができないばかりか、かえって、わたしたちの援助を必要としている存在である。それは、現実に存在するあらゆる存在のなかにあって、沈黙のうちにわたしたちの援助を求めている、存在しないでいることの可能性なのだ。悪とは、もっぱら、この悪魔的な要素を前にしたわたしたちの不適切な反応のことである。わたしたちがその悪魔的な要素から恐れおののいて引き下がり、ーこの逃走のなかで足固めをしながらーなんらかの存在することの権力を行使しようとすることなのだ。[…]また、わたしたちの最も内奥に潜んでいる、存在しないでいることの可能性をつかみ損ねて、愛を可能にする唯一のものから転落してしまうのである。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [46ページ] 


このようにして、タルムードで各人が不可避的に受けとることとならざるをえない隣人の場所として提示されている数多的な共通の場所とは、あらゆる個物が自己自身へと到来すること、それがなんであれかまわないものであることーーすなわち、それがそのように存在するままに存在していること以外の何ものでもないのである。/この代表=表彰不可能な空間を名指す固有名詞がくつろぎである。じっさいにも、くつろぎ<agio>という語は、その語源によると、傍らにある空間を指している。[…]プロヴァンスの詩人たちは「くつろぎ」を彼らの詩作法の専門的術語としていて、愛の場所そのものを指すのに用いている。あるいはより正しくは、愛の場所というよりも、なんであれかまわない個物が生起することの経験としての愛を指すのに用いている。[…]“Mout mi semblatz de bel aizin <大層ご機嫌うるわしう>”ーーこれがジョフレ・ルーデルの歌のなかで恋人たちが出会ったときに交わす挨拶である。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [37ページ] 


もろもろの個物が延長という属性において生起し、これをつうじて交信しあうことは、それらを本質において結合するのではなくて、それらを現実存在という形態において散種することとなるのである。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [30ページ] 


私がこのような結びつきを結わおうと欲したのは、それを解くためであって、私が自分を彼に結び合わせたのは、了解がいったん現実的なものとなり、その後で、了解が現実的なものとして破壊されうるようになることを願ったからかもしれない。たぶん私はそれ以上のことを夢見てさえいたのだろう。たぶん私が近づいたのは、ただ彼と格闘するためだったのである。その格闘は、彼を彼から切り離すことになるはずの格闘だった、たとえその格闘のなかで、私を永遠に私から切り離すことになったとしても。
― 出典: 私についてこなかった男 モーリス・ブランショ [148ページ] 


これまでそうかもしれないとつねに疑っていたことなのだが、私が〝私〟と発言するのには目的があって、それは、彼にたいして今度は彼のほうが〈私は〉と発言するように強制するためだったのではないだろうか。[…]おそらく、こうした領域にかつて私はそれと知ることなく近づいたことがあったのだ。それほどまでに私は若さと心臓の活力のゆえに彼に結び合わされていたのである。そして、自分は彼に向かって〝あなた〟と言えるほど近くにいる、彼が〝私〟と発言するのを聞けるほど遠くにいる、と思いこんでいたのであり、…
― 出典: 私についてこなかった男 モーリス・ブランショ [120ページ] 


「ええ、私も知りたいと思っています。」私もまた、それを知ろうと試みてみた。一瞬のあいだ、私は答えまでたどりつけたと思ったーーだが、私の達したところとは、この明るくて心地よい場所、この台所以外の何ものでもなかった。かつての私はこの台所を犠牲にして沈黙を破ってしまったのだが、いま、また私はこの台所を眺めていたのである。
― 出典: 私についてこなかった男 モーリス・ブランショ [51ページ] 


しかしひとは書物のために書くのではない。書物とは、書くという行為が書物の不在に赴くための巧智なのである。
― 出典: 書物の不在 (叢書・エクリチュールの冒険) モーリス・ブランショ [19ページ] 


書くということは、作品の不在にかかわるものであるが、書物という形式において、作品のうちで力を発揮するものである。[…]これは書くという営みと書物の作成のあいだで構築される関係ではない。書物の作成によって、書くという営みと作品の不在のあいだで構築される関係なのである。書くということは、書物の不在を作りだすこと(作品の消去)である。あるいは言い換えれば、書くということは、作品を横切って、作品によって生み出される作品の不在である。
― 出典: 書物の不在 (叢書・エクリチュールの冒険) モーリス・ブランショ [18ページ] 


僕が今までになしたところは皆無です。わずかです。皆無といってもいいくらいです。僕はこれからもっとよきものを作るでしょう。リザベタさん。ーーこれは一つの約束です。こうして書いている間にも、海の響きが僕の所までのぼって来ます。そうして僕は眼を閉じます。僕は一つの未だ生まれぬおぼろげな世界を覗き込みます。それは整えられ形造られたがっているのです。僕は人間めいた姿の影がうごめいているのに見入ります。[…]ーーそうしてこういう影に、僕は深い愛着を寄せています。けれども僕の最も深く最もひそかなる愛は、金髪碧眼の、晴れやかに溌剌とした、幸福で愛想のいい凡庸な人々の所有なのです。
― 出典: トニオ・クレエゲル (岩波文庫) トオマス・マン [125ページ] 


彼は頭を強い潮風にもたせかけた。風は思う存分、まっしぐらに吹きつけて来ては、両の耳を押し包んで、軽い眩暈を、鈍い麻痺を起こさせる。するとその感じの中に、いっさいの禍、悩みと迷妄、意欲と労苦への思い出は、だるくなごやかに消えてしまうのである。そして身のまわりの風声と濤音と泡立ちと喘鳴とのうちに、彼は胡桃の老木のざわざわ鳴り軋む音と、庭戸のぎいぎい言う響きとが、聞こえるように思った。・・・だんだん闇が濃くなって来た。
― 出典: トニオ・クレエゲル (岩波文庫) トオマス・マン [92ページ]