覚書001

編集者の読みには、著者と読者の顔が見え、肉声が聞こえていなければなりません。それに対して校正者の読みは、つきつめていえば、生身の人間のいっさい介在しない世界です。(…)素読みでゲラの言葉と私とのあいだに一対一の信頼関係が生まれたとき、不思議な現象が起こります。校正する私の耳に、著者の肉声でもなくだれの肉声でもない、ある内的な声が聞こえてくるのです。それはゲラの言葉自身がもつ肉声としかいいようのないものです。
― 出典: 校正のこころ 大西寿男 [65ページ] 


[裁判員制度と言葉]
(…)ここでは、裁きとは〝懲らしめ〟だけではなく〝ゆるし〟の場であることが、市民感覚で示されているように思います。(…)あやまちを、ただたんに罰するのではなく、どうすれば目の前の被告席に立っているこの人が生きなおせるだろうか、どうしたら理不尽な傷を負わされた被害者が救われるだろうか、と問いなおすこと。そこには、あたたかなまなざしがあると、思うのです。
― 出典: 校正のこころ 大西寿男 [161ページ] 


出版界で、とくに編集の方に多いように思われますが、「編集者は著者の側に立って原稿を読む、校正者は読者の側に立ってゲラを読む」といわれ、(…)その言葉はある面で真実を語っていると思いますが、私はまた別の面を考えてしまいます。それは、「校正者は著者の側にも読者の側にも立たない。ただゲラの言葉の側にのみ立つ」という面です。私は、校正者として、こちらの面を大切に守っていきたいと思います。
― 出典: 校正のこころ 大西寿男 [103ページ] 


校正者は自分の存在、主体的な自分というものは押し殺さねばならないのか(…)しかし、そうではないのです。逆に、校正者は自分の言葉をもっていないといけません。しかも、しっかりと。さらに校正者は、読者という世界(外の世界)の言葉とも、〝もうひとつの自分の言葉として〟つながっていなければなりません。ちょうど一冊の本が、その外側に広大な〝書かれなかった言葉〟の世界を、影としてもっているように。
― 出典: 校正のこころ 大西寿男 [98ページ] より


校正のこころをもつことは、言葉を回復し再発見する力を宿すことです。その根本には、「積極的受け身」の態度があります。(…)校正のこころの第一歩、それは、言葉を信じ、言葉に信じられることからはじまります。
― 出典: 校正のこころ 大西寿男 [12ページ] 


目さえ開いておけば、常に誰かの絵画が現れる状態にいつからかなり、次第に目を閉じている時でさえ絵が見えるようになりはじめていた。きよ子にとっては、視覚的に思い出されるものが絵であり、実際に目の前にあるものはどんなに平面的であってもそれは彫刻だった。
― 出典: 寝相 滝口悠生 [206ページ] 


「多くのアメリカ・インディアンの文化においては、その社会の一員は、かならずいちどは、その社会の外へ出なくてはならないことになっている——人間の網の目の外へ、『自分の頭』の外へ、一生にすくなくとも一度は。彼がこの幻をもとめる孤独な旅からかえってくるとき、秘密の名まえと守護してくれる動物の霊と、秘密の歌をもっている。それが彼の『力』なのだ。文化は他界をおとずれてきたこの男に名誉をあたえる。」

けれども彼が自分の<トナール>に戻ってきたとき、それは昔の<トナール>でないことに気付く。幼虫の世界と蝶の世界がおなじ世界ではありえぬように、彼は永久にふるさとにはかえらないのだ。
― 出典: 気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫) 真木悠介 [164ページ] 


「自分の盟友から身を守るために」その盾を使うのだという。敵からではなく盟友からである。「盟友」ということばをドン・ファンはすでにみたように、ある種の幻覚性植物などに使う。それらは彼をあの「力の舞う場所」=異世界にみちびいてくれる盟友ではあるが、同時に彼をそのままこの世界からつれ去ってしまおうとする危険な伴侶なのだ。/その盾とは<人のすること>である。たとえばふつうの人にとっては、職場とか家庭といった「日常生活での活動」である。/まず呪術師は、ふつうの人間のようには「自分」の壁が固くないので、<力>と出会うと裂け目が開いて、この<力>を狩って自分の力とし、超人的なはなれわざでもやってのけることができる。/けれどもこの呪術師の強みは同時に弱みでもある。彼の裂け目はいつでも開きすぎて、自己解体への危険をはらむ。
― 出典: 気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫) 真木悠介 [131ページ] 


そして彼女には、自分がいまはアルベールのうちに、彼の愛児のように、世界の夜あけそのものにひたされ、冥界の始源の光にひたされ生きているような気がする。大きな水が不意に滝となる勢いでいまは彼女からひいて行ったあの夜の底から、彼女は少しずつ、無に帰していた自分を彼のうちで取り戻した。いまでもまだ目に見えるようだった、どうやって彼が、月の光の中を、静まり返ったまなざしと、原初の純粋さの漂う中にひたされたような何とも言えず卒直なしぐさとを見せて、彼女のところへやって来たか、どうやって彼が彼女を洗い、接吻し、着物を着せ、両腕をまわして彼女を支えたか、そしてそのときどれほど彼女は、空からおりて来た天使の一団に取り巻かれたよりも喜びを感じ、まどろみの中の意識がそうもあろうと思われるよりももっとみなぎりひろがる、もっとやさしい何かを味わい、純粋な、熱にうかされたような信頼のうちに決定的に彼に身をゆだね、彼の腕のほかには包みこんでくれるものなどありえない深淵の上で自分自身を絶対的に放棄してしまったか。
― 出典: アルゴールの城にて (岩波文庫) ジュリアン・グラック


尊にこうはっきり文治が見えるのだとしたら、周囲の風景が、命のあるなしを問わずこの土地の風景の織りなすすべてが、己の存在や輪郭や濃度を、かりにあるかなきかのごくわずかずつだとしても、文治に譲り渡して、そうやって文治がこの地上から消滅するのをかろうじて阻止している。そうはならないか? そうだ。そう考えることもできるはずだ。
― 出典: 獅子渡り鼻 小野正嗣 [32ページ] 


詩のことばは、いわば永遠の現在において紡がれる。詩人がことばを撚りあげ、詩句を編みあげようとするとき、通常の意味での時間は流れていない。詩のことばは瞬間をとどめ、現在を永遠のものとして語りだすことができるのである。哲学のことばはこれに対して、あくまで時間のなかで紡ぎだされるほかはない。哲学者はいつでも、時間のなかで永遠に追いつこうとする。経験の総体を賭け金として、時間を永遠の模像として語りだそうとするのである。それは、だから、およそ完結することのありえないこころみとなるだろう。
― 出典: メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス) 熊野純彦 [105ページ] 


「僕と一緒に旅に出ないか?」と僕はたずねた。「どこか。どこでもいい。きみの好きなところ。二人の文学専攻の学生が、現実世界で生活するってのはどうだい?」

― 出典: ガラテイア2.2 リチャード・パワーズ [78ページ


「でも、もしぼくが鉛筆を取っちゃったら、きみはここへ帰ってこられないかもしれないもの」「あたしは帰りたくないのよ。あたし、あなたみたいに、ここから出たいの」「うん、わかってるよ。出るためにはここへ帰ってこなくちゃならないだろ。つまりさ、きみがほんものの世界にいたんじゃ、ここから出られたかどうかわからないじゃないか、自由になったかどうかがさ。ぼくのいうことわかるかい?」「ええ。でもほんとの世界じゃ、あたしは自由よ。それにあたし海に行くの」マリアンヌはいった。

「ぼくはそれでもまだ充分じゃないと思うよ」マークはいった。「きみはむこうの海と同じように、こっちでも海に行きつかなくちゃいけないのさ。とにかくぼくは、そうしてもらいたいんだよ」
― 出典: マリアンヌの夢 (岩波少年文庫) キャサリン・ストー [326ページ] 


「夢の中でなにをしようと、どうってことないわよ」分別のある声が、なぐさめるようにいった。「ほんとの世界じゃ、なんの関係もないんだから」/「夢だって嘘じゃないわよ」ほかの声がいった。そしてマリアンヌには、そのことばが正しいことがわかっていた。「夢の中ですることは、目のさめている時にすることと同じようにほんとなのよ」
― 出典: マリアンヌの夢 (岩波少年文庫) キャサリン・ストー [196ページ] 


「それならぼくはどこにいるんだい?ぜんぜん存在しないのかい?ぼくはきみの見た夢の一部で、もしきみがぼくの絵をかいたり、ぼくの夢を見さえしなけりゃ、ぼくなんかどこにもいないんだ、ってきみはいうんだろ」「そうじゃないわ」とマリアンヌはいった。「そんなこといわないわよ。なぜって、あなたがほんとにいるってこと、あたしにはわかっているんですもの、あたしの夢の外にね。それに、あたしが家の中に人をかいた時、それがあなたになるんだってことはわからなかったのよ。あたしはただ、人をひとりこの家の中にかいたの。あたし、ここにぴったり合わない絵はかけないって感じたのよ。合わない絵はかけないし、合わないものをかいたら、ほかの絵になっちゃうと思ったの。だからね、もしあたしがだれかをかくとするでしょ、それがどんな絵でもね、人ならあなたにならなくちゃいけなかったのよ。なぜって、どういうわけだかあなたは前にここに来ていたんですものーあたしが絵をかく前にあなたはここに来てたのよ。ただあたしには、絵をかくまであなたの姿が見えなかっただけなのよ」
― 出典: マリアンヌの夢 (岩波少年文庫) キャサリン・ストー [107ページ] 


「しばらくは話せなかったね」「この方式を思いつくまでね」「そう、これは大発明。あなたは書くことでわたしの言いたいことを想像してくれる。声が聴えなくても、あなたは意味を聴いてるんだよ」「こうやって一生ずっと書いていこう、と今は思ってるけど」「どうかな?きっとすぐに素晴らしい人があらわれるよ。そしたら、こんなことをする必要なくなる」…「でも僕の方はやっぱりどこかで君の声を頼りにするだろうと思う」「いやそこは次の人にまかせます。また三角関係になっちゃうのはいやなの」「ああ、そうか。そうかもね」「ね?」
― 出典: 想像ラジオ いとうせいこう [134ページ] 


君は君だけが存在できるかのようにして存在している以上、ともするとこの本が存在することも、さほど必要ではなかったのかもしれない。君と知りあう前からこの本に与えるつもりでいた結語の思い出のために、私はもっと別のやりかたで解決できることを信じた。あの結語は私の生活に君が侵入したからといって、無効にはならなかったように見える。それどころか、君を通してして本当の意味をもたないし、どんな力ももたないものだ。
― 出典: ナジャ (岩波文庫) アンドレ・ブルトン [187ページ] 


もうおぼえていてはくれまいが、なにやら偶然のようにこの本の冒頭のことを知っていた君は、とてもタイミングよく、とても荒々しく、とても効果的に私のそばにあらわれ、私がこの本を「扉のように開いたまま」にしたいと思っていることを、そしてその扉からはおそらく君以外の人が入ってくるのをけっして見ないだろうということを、私に思いおこさせるようにはからったのだ。入ってくるのも、出てゆくのも、君だけだろうということを。
― 出典: ナジャ (岩波文庫) アンドレ・ブルトン [184ページ] 


 「私にはさっきからとてもよく見えはじめていました。それは本当にひとつの星、あなたがそこにむかって進んでいるひとつの星でした。あなたはまちがいなくその星にたどりつけるはずでした。お話を聞きながら、あなたの邪魔をするものはなにもないだろうって感じていました。なにも、この私でさえも…。あなたはあの星を、けっして私が見たようには見られないでしょう。」
― 出典: ナジャ (岩波文庫) アンドレ・ブルトン [82ページ] 


私は二人と共に行くだろうか。いや、決して行かない。行かなくてもいい、ということを、二人が最大の方法で教えてくれたから。
― 出典: ひらいて 綿矢りさ [167ページ] 


愛。常に発情している、陳腐な私の名前。黒鉛で書いても、真っ赤に染まっている。愛は、唾棄すべきもの。踏みつけて、にじるもの。ぬれた使い古しの雑巾を嗅ぐように、恐る恐る顔を近づけるもの。鰯のうす黒いはらわた、道路に漏れるぎらついた七色のガソリン、野外のベンチにうすく積もった、ざらざらした黒いほこり。恋は、とがった赤い舌の先、思いきり摑む茨の葉、野草でこしらえた王冠、頭を垂れたうす緑色の発芽。[…]私は、乾いた血の飛沫、ひび割れた石鹸。ガスとちりの厚い層に覆われた惑星。
― 出典: ひらいて 綿矢りさ [113ページ] 


二人は、《聖なる扉》で光り輝くセラピムの述べた言葉を、いつの日にか、誇らかに唱えられるよう、もう一度、宇宙の泥に沈んで試煉を受けたいという、燃えるような欲望を感じた。
― 出典: 世界幻想文学大系〈6〉セラフィタ (1976年) オノレ・ド・バルザック [226ページ] 


この奇妙な人物は視線を向けるだけで彼を霊の状態にして、《冥想》が学者を、《祈り》が信仰篤い人を、《幻視》が芸術家を、《睡眠》がある種の人々を連れ去る所に連れていくのであった。天上の深淵に赴くには、それぞれの道があり、それぞれの案内役があり、皆、共通に帰還の際の苦痛がある。
― 出典: 世界幻想文学大系〈6〉セラフィタ (1976年) オノレ・ド・バルザック [58ページ] 


「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つの言葉では、決して中間的なものを名指すことができないのだろう? それを名指すには二人が必要なのだろうか?」「そうだ。私たちは二人いなければならない。」「なぜ二人なのだろう? どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」「同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ」(終わりなき対話/ブランショ
― 出典: レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫) 内田樹 [106ページ] 


もしかしたらマルティンがぼくの家に越してくるかも。マルティンが絵を描き、ぼくが本を書く。それで人生がすばらしくなかったら」と、ジョナサン・トロッツは考えた。「そりゃ、おかしいよ」
― 出典: 飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫) ケストナー [119ページ]


5人の少年は、5つの小さな満月のように顔を輝かせた
― 出典: 飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫) ケストナー [96ページ] 


さしあたりは「映画館に」出かけようという戦いの誘い・・・私たち自身の属性であるはずの異邦の快楽の入り口=出口であり戦いの前線かもしれない場所への誘い・・・(訳者あとがき)
― 出典: 映画を見に行く普通の男―映画の夜と戦争 (エートル叢書) ジャン・ルイシェフェール [341ページ] 


そこで主人公ムルソーが「僕は普通の男です」「ごく普通の、世間の人と同じです」と繰り返すのを見逃してはならないので、ムルソーがそう言う時、彼が言っているのは文字通りのこと、自分はさしあたりこの世界に生まれ生き死んで行くという事実を引き受ける以外のなにものをも持っていない(その限りで世界を愛してもいる)「普通の者、尋常の人」に他ならないということ[…]「映画を見に行く普通の人々」は、社会生活の疲れの中でこの世界には存在しない癒しのユートピアを求めるように映画館に行くのではなくて、「社会」という傲然とした「別の狂気の組織から」しばし帰国するように、実在する領域としての「映画館=異邦」を再訪し続けるのだ、と。[…]そこから見た時シェフェールの如何にも孤独に沈潜した反時代的な試みは、膨張した「社会」のただ中で「普通のひと=異邦人」であることを固執する薄闇のノスタルジアの書ではなくて、一種の世界闘争の書の色合いを帯び始めるかのようです。(訳者あとがき)
― 出典: 映画を見に行く普通の男―映画の夜と戦争 (エートル叢書) ジャン・ルイシェフェール [339ページ] 


そこに映写されたものとして僕らが見る身体は、光の中に蠢き或いはそれに捕えられてあるのか、肉を持った第三の身体をその中に潜め持つ気配もなく、その姿が仮に僕らに似ているようであるにしても、そのせいで、逆に僕らの方が、彼らが幾度試みてもかたちになろうとしない茫漠としたイマージュになってしまう。[…]しかし、ここでの「知」をどう言えばいいのでしょうか、ほとんど定義できない何かとしか言いようがありません、と言うのもそれは、僕らの意志とはまったく関わらないままに生ずる、僕ら自身の一種の放棄、放棄というかたちでの委託によってであるかのように、僕らの彼岸であるそこで開示されるしかない何かだからです、僕らはその「知」を主体として持つのではなく、避け難い或る宿命として、ただ受諾するのです。
― 出典: 映画を見に行く普通の男―映画の夜と戦争 (エートル叢書) ジャン・ルイシェフェール [170ページ] 


フッサールは、こんなふうに述べている。「<下方の背景>〔=大地〕は、尽きることのない静止のうちにとどまりつづけるが、可動的なもの〔=対象〕としては統覚されないと言えるだろう。しかし、どんな場合にも、運動が構成されるのは、<下方の背景>の隠蔽と一体になってのことである。」
― 出典: これが現象学だ (講談社現代新書) 谷徹 [210ページ] 


フッサールの超越論的自我を、大仰に説明したり、大仰に批判したりする人がいる。しかし、フッサールは「小銭」で哲学をしようとしていたのである。抽象的に(高額紙幣で)考える前に、この事例のように具体的に(小銭で)考えないと、フッサールの声を聞き違えてしまう。
― 出典: これが現象学だ (講談社現代新書) 谷徹 [178ページ] 


さて、直接経験=志向的体験(志向性をもったマッハ的光景)のなかに、a、b、c、d、eという並木が見えているとしよう。[…]ここで、自我は、またキネステーゼ意識のK成分に動機づけられて、さらに新たな可能的対象gを見ようとし、そしてそれを現実に見る。つまり、c、d、e、f、gである。ここで、さらに新たな可能的対象hが指し示されるだろう。このように、次々に新たな可能的対象が指し示されていくのであるが、こうした指し示しが「地平」を形作る。
― 出典: これが現象学だ (講談社現代新書) 谷徹 [170ページ] 


Fが僕の腕に触れ、星を指さして、彼女が知っている限りの星々や星座の名を指し示しました。大熊座(シャリオ)、小熊座(ウールス)、僕は天の川だけしかすぐには見分けられませんでした。それと、夜の中に消えたミルク色のお話と。
― 出典: 映画を見に行く普通の男―映画の夜と戦争 (エートル叢書) ジャン・ルイシェフェール 


彼は1916年にフライブルク大学に移り、そこで若きハイデガーと出会った。しばらくしてフッサールハイデガーの哲学的・現象学的な素質の大きさに気づく。彼は真に「ともに哲学する」パートナーを見つけたと信じた。彼はハイデガーに言った。「あなたと私が現象学だ」。
― 出典: これが現象学だ (講談社現代新書) 谷徹


フッサール家の庭の戸口まで来たとき、彼(フッサール)の深い不快感が爆発した。『ドイツ観念論のすべてが私にはいつも糞食らえという感じだった。私は生涯にわたって』――こう言いながら彼は、銀の柄のついた細いステッキを振るわせてから、そのステッキを戸口の柱に押し当てて前屈みになった――『現実を求めてきた』」
― 出典: これが現象学だ (講談社現代新書) 谷徹


愛の告白とは、このような偶然から運命への移行であり、それゆえ告白には大きな危険が伴い、強烈な恐怖を引き起こすのです。もっとも愛の告白は、必ずしも一度きりのものとは限らず、それはときに、長く、散漫で混乱し、複雑なもので、告白された後にまた言い直され、さらに新たに言い直されることになりかねません。それは偶然が定着される瞬間なのです。今起きたこと、この出会い、わたしはこの出会いのエピソードを、わたしの相手に告白しよう。わたしは彼〔彼女〕に、たった今、わたしを拘束するような何かが起きたのだと伝えよう、
― 出典: 愛の世紀 アラン・バディウ [68ページ] 


何ものかをただ単純に、それがそんなふうに存在しているままに見ること。つまりは、取り返しのつきようもなく、しかしまただからといって必然的ではない仕方で存在しているとともに、そんなふうに、しかしまただからといって偶然的ではない仕方で存在しているままに見ること。ーーこれが愛である。/世界が取り返しのつきようもないことをきみが認識する瞬間、まさにその瞬間において世界は超越的である。/世界はどのように存在しているのかーーこのことは世界の外にある。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [141ページ] 


スペクタクルは、それ自体としては、《出現するものは善いものであり、善いものは出現する》ということ以外の何ものも言ってはいないのである。今日、スペクタクルの勝利が達成された時代にあって、思考がドゥボールの遺産から成果を収穫するにはどうすればよいのだろうか。というのも、スペクタクルというのは明らかに言語活動であり、人間のコミュニケーション可能性そのもの、あるいは言語的存在そのものだからである。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [100ページ]


有限なものの境界を無限定なものと化して、それが混濁し、なんであれかまわないものになるのを可能にする、このそれとは気づかない有限なものの震えことは、あらゆる事物がメシアの世界で遂行せざるをえなくなるちっぽけな位置移動にほかならない。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [74ページ] 


新しいのは、その話がメシア世界のなかに導き入れているちっぽけな位置移動である。[…]福者の鼻はほんの少しだけ短くなるだろうとか、食卓の上の瓶がきっかり二分の一センチ移動するだろうとか、外にいる犬が吠えるのをやめるだろうとかいった具合にである。ちっぽけな位置移動が関係しているのは事物の状態ではなくて、その状態の意味および限界である。その位置移動が生じるのはもろもろの事物の内部においてではなく、それぞれの事物とそれ自身とのあいだの余裕空間においてである。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [70ページ] 


これら二人の作家の世界になにか悪魔的要素のようなものが生き残っているとするなら、それはむしろ、スピノザが悪魔は被造物うちで最も弱く、神から最も遠く離れた存在であると書いたとき、心に思い描いていたかもしれないような形態においてであろう。そのようなものとしてーすなわち、本質的に力のない存在であるかぎりでー悪魔はなんらの悪もなすことができないばかりか、かえって、わたしたちの援助を必要としている存在である。それは、現実に存在するあらゆる存在のなかにあって、沈黙のうちにわたしたちの援助を求めている、存在しないでいることの可能性なのだ。悪とは、もっぱら、この悪魔的な要素を前にしたわたしたちの不適切な反応のことである。わたしたちがその悪魔的な要素から恐れおののいて引き下がり、ーこの逃走のなかで足固めをしながらーなんらかの存在することの権力を行使しようとすることなのだ。[…]また、わたしたちの最も内奥に潜んでいる、存在しないでいることの可能性をつかみ損ねて、愛を可能にする唯一のものから転落してしまうのである。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [46ページ] 


このようにして、タルムードで各人が不可避的に受けとることとならざるをえない隣人の場所として提示されている数多的な共通の場所とは、あらゆる個物が自己自身へと到来すること、それがなんであれかまわないものであることーーすなわち、それがそのように存在するままに存在していること以外の何ものでもないのである。/この代表=表彰不可能な空間を名指す固有名詞がくつろぎである。じっさいにも、くつろぎ<agio>という語は、その語源によると、傍らにある空間を指している。[…]プロヴァンスの詩人たちは「くつろぎ」を彼らの詩作法の専門的術語としていて、愛の場所そのものを指すのに用いている。あるいはより正しくは、愛の場所というよりも、なんであれかまわない個物が生起することの経験としての愛を指すのに用いている。[…]“Mout mi semblatz de bel aizin <大層ご機嫌うるわしう>”ーーこれがジョフレ・ルーデルの歌のなかで恋人たちが出会ったときに交わす挨拶である。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [37ページ] 


もろもろの個物が延長という属性において生起し、これをつうじて交信しあうことは、それらを本質において結合するのではなくて、それらを現実存在という形態において散種することとなるのである。
― 出典: 到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険) ジョルジョ・アガンベン [30ページ] 


私がこのような結びつきを結わおうと欲したのは、それを解くためであって、私が自分を彼に結び合わせたのは、了解がいったん現実的なものとなり、その後で、了解が現実的なものとして破壊されうるようになることを願ったからかもしれない。たぶん私はそれ以上のことを夢見てさえいたのだろう。たぶん私が近づいたのは、ただ彼と格闘するためだったのである。その格闘は、彼を彼から切り離すことになるはずの格闘だった、たとえその格闘のなかで、私を永遠に私から切り離すことになったとしても。
― 出典: 私についてこなかった男 モーリス・ブランショ [148ページ] 


これまでそうかもしれないとつねに疑っていたことなのだが、私が〝私〟と発言するのには目的があって、それは、彼にたいして今度は彼のほうが〈私は〉と発言するように強制するためだったのではないだろうか。[…]おそらく、こうした領域にかつて私はそれと知ることなく近づいたことがあったのだ。それほどまでに私は若さと心臓の活力のゆえに彼に結び合わされていたのである。そして、自分は彼に向かって〝あなた〟と言えるほど近くにいる、彼が〝私〟と発言するのを聞けるほど遠くにいる、と思いこんでいたのであり、…
― 出典: 私についてこなかった男 モーリス・ブランショ [120ページ] 


「ええ、私も知りたいと思っています。」私もまた、それを知ろうと試みてみた。一瞬のあいだ、私は答えまでたどりつけたと思ったーーだが、私の達したところとは、この明るくて心地よい場所、この台所以外の何ものでもなかった。かつての私はこの台所を犠牲にして沈黙を破ってしまったのだが、いま、また私はこの台所を眺めていたのである。
― 出典: 私についてこなかった男 モーリス・ブランショ [51ページ] 


しかしひとは書物のために書くのではない。書物とは、書くという行為が書物の不在に赴くための巧智なのである。
― 出典: 書物の不在 (叢書・エクリチュールの冒険) モーリス・ブランショ [19ページ] 


書くということは、作品の不在にかかわるものであるが、書物という形式において、作品のうちで力を発揮するものである。[…]これは書くという営みと書物の作成のあいだで構築される関係ではない。書物の作成によって、書くという営みと作品の不在のあいだで構築される関係なのである。書くということは、書物の不在を作りだすこと(作品の消去)である。あるいは言い換えれば、書くということは、作品を横切って、作品によって生み出される作品の不在である。
― 出典: 書物の不在 (叢書・エクリチュールの冒険) モーリス・ブランショ [18ページ] 


僕が今までになしたところは皆無です。わずかです。皆無といってもいいくらいです。僕はこれからもっとよきものを作るでしょう。リザベタさん。ーーこれは一つの約束です。こうして書いている間にも、海の響きが僕の所までのぼって来ます。そうして僕は眼を閉じます。僕は一つの未だ生まれぬおぼろげな世界を覗き込みます。それは整えられ形造られたがっているのです。僕は人間めいた姿の影がうごめいているのに見入ります。[…]ーーそうしてこういう影に、僕は深い愛着を寄せています。けれども僕の最も深く最もひそかなる愛は、金髪碧眼の、晴れやかに溌剌とした、幸福で愛想のいい凡庸な人々の所有なのです。
― 出典: トニオ・クレエゲル (岩波文庫) トオマス・マン [125ページ] 


彼は頭を強い潮風にもたせかけた。風は思う存分、まっしぐらに吹きつけて来ては、両の耳を押し包んで、軽い眩暈を、鈍い麻痺を起こさせる。するとその感じの中に、いっさいの禍、悩みと迷妄、意欲と労苦への思い出は、だるくなごやかに消えてしまうのである。そして身のまわりの風声と濤音と泡立ちと喘鳴とのうちに、彼は胡桃の老木のざわざわ鳴り軋む音と、庭戸のぎいぎい言う響きとが、聞こえるように思った。・・・だんだん闇が濃くなって来た。
― 出典: トニオ・クレエゲル (岩波文庫) トオマス・マン [92ページ]