覚書004

・時間という変数がない世界は、決して複雑ではないのだ。その世界は相互に連結した出来事のネットであって、そこに登場する変数は確率的な規則に忠実に従う。[…]それは澄み切った世界、風が吹きすさび、山々の頂のような美しさに満ち、思春期の若者のひび割れた唇のように美しい世界なのだ。

 

・わたしたちは科学するにあたって、この世界をなるべく客観的な形で記述しようとする。そのために、己の視野が生み出すゆがみや錯覚をぬぐい去ろうとする。科学は客観性を希求し、合意可能な共通の視点を切望するのだ。

これはたいへん立派なことだが、観察を行う際に自分たちの視点を無視することで失われるものにも注意を払う必要がある。科学がどんなに客観性を希求するにしても、この世界におけるわたしたちの経験が世界の内側からのものだということを忘れてはならない。わたしたちがこの世界に向ける視線は、すべて特殊な視点からのものなのだ。

 

・馬車とは車輪なのか。車軸なのか。それとも枠組みか。[…]「馬車と同じように、ナーガセーナという名前も関係と出来事の集まりを指しているにすぎない」と。わたしたちは、時間と空間のなかで構成された有限の過程であり、出来事なのだ。

 

・「わたしは物理学に取り組む際に、感情を退けず、むしろ解放する。物理学をするということは、考え、計算し、文献を読み、議論するということだが、それらを推し進めているのは感情だ」

―『時間は存在しない』カルロ・ロヴェッリ

 

 

「小野さん、真面目だよ。いいかね。人間は年に一度位真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮ばかりで生きていちゃ、相手にする張合がない。又相手にされても詰るまい。僕は君を相手にする積で来たんだよ。好いかね、分ったかい」

「ええ、分りました」と小野さんは大人しく答えた。

「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていない様だが」

「そうかも――知れないです」と小野さんは術なげながら、正直に白状した。

「そう君が平たく云うと、甚だ御気の毒だが、全く事実だろう」

「他人が不安であろうと、泰然としていなかろうと、上皮ばかりで生きている軽薄な社会では構った事じゃない。他人どころか自分自身が不安でいながら得意がっている連中も沢山ある。僕もその一人かも知れない。知れないどころじゃない、慥かにその一人だろう」

 小野さんはこの時始めて積極的に相手を遮ぎった。

「貴所は羨しいです。実は貴所の様になれたら結構だと思って、始終考えてる位です。そんな所へ行くと僕は詰らない人間に違ないです」

 愛矯に調子を合せるとは思えない。上皮の文明は破れた。中から本音が出る。悄然として誠を帯びた声である。

「小野さん、其所に気が付いているのかね」

 宗近君の言葉には何だか暖味があった。

「いるです」と答えた。しばらくして又、

「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま

「僕の性質は弱いです」と云った。

「どうして」

「生れ付きだから仕方がないです」

 これも下を向いたまま云う

 宗近君は猶と顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上に肱を乗せる。肱で前へ出した顔を支える。そうして云う。

「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」

「救いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先に居た。顔を押し付ける様にして云う。

「こう云う危うい時に、生れ付きを敲き直して置かないと、生涯不安で仕舞うよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しは付かない。此所だよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間が幾何もある。皮だけで生きている人間は、土だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのは勿体ない。真面目になった後は心持がいいものだよ。君にそう云う

経験があるかい」

 小野さんは首を垂れた。

「なければ、一つなって見給え、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬の様にうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なる程出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。成程神経も鈍いだろう。 ――然しそう無神経なら今日でも、こう遣って車で馳け付けやしない。そうじゃないか、小野さん」

 宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。

「僕が君より平気なのは、学問の為でも、勉強の為でも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれる程、自信力の出る事はない。真面目になれる程、腰が据る事はない。真面目になれる程、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が厳存していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。遣っ付ける意味だよ。遺っ付けなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。ロが巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」

「いえ、分ったです」

「真面目だよ」

「真面目に分ったです」

「そんなら好い」

「難有いです」

―『虞美人草夏目漱石

 

それは、まるで夕暮れに何かを眺めようとするときにも似ている。光が足らないというわけではないが、だんだんと暗くなるから、見るのを止めることができない。かくして、事物や人物が浮かび上がってくる。見るのを止めることができないということのうちに、つねに留まっていよ。

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人生には、その現実を完全には把握できないような、決定的な出来事や出会いが幾つかあるものだ。それらは、たしかに起こっていて、道を示してくれるのだが、実は止むことなく起こりつづけている。
―『書斎の自画像』ジョルジョ・アガンベン

 

分かったよ。
子供だったころのマルワーンは微笑ましい遊びをよく考えついた。一度、時間を拾うから手伝ってほしいと彼に頼まれたことがある。ぼくらは谷に向かって下っていき、腹這いになって体を伸ばし、まったく動かずに一本の雑草を一時間以上見つめた。ぼくらは石像のように押し黙っていた。自然にあるものを何でも一時間見つめれば、その一時間を脳に蓄えておける――マルワーンはそう信じていた。みんなが時間を失っていくのをよそに、ぼくらは時間を蓄えるつもりだった。

―『死体展覧会』ハサン・ブラーシム

 

血、神経、苦痛だ。
赤い肉に、自分の肉と同じようなあの肉に、彼は苦しみを与えた。
そうだとすると、彼の周りにある地面の上では、彼の身振りはすべて苦しみを与えるのだろうか?
それでは、彼は植物や動物たちの苦痛のなかに居坐っているということになるのだろうか?
それでは、彼は殺すことなく樹木を切断することはできないのだろうか?
彼が樹木を切断するとき、彼は樹木を殺しているのだ。
鎌で刈り取るときも、彼は殺している……。
[…]
この大地だ!
四方に幅広く広がっているこの肥沃で重々しい大地は、樹木や水や河や小川や森や山や丘を担い、さらに、周囲できらめく稲妻のさなかでまるで回転しているように見える丸い町や、その大地の毛にしがみついている人間の群れを載せている。この大地は生命を持った生き物ではないのだろうか? つまりひとつの身体ではないのだろうか?
大地は力と悪意を持ち合わせているのではないか?
俺が蜥蜴に襲いかかったように、巨大な塊が俺の上に転がってくるかもしれないのだろうか?
この谷間、あるいは丘のあいだのこの大地のしわを俺は今引っ掻いているのだが、俺のシャベルの刃の下でこれが動くようなことになればどうなるのだろうか?
これは肉体だ!
生命を持っているんだ!
生命とは動きであり、ため息でもある……。
それは水道橋の声であり、木々の歌だ。
生命があるのだろうか? もちろん、そうだ! 何故なら、この大地は動くからな。十年前には、大地が揺れ動いた。南の方で、エクスのあたりで、ランベスクや他の村がいくつか崩れ落ちた。あの時、マノスクの鐘は鐘楼の上でひとりでに鳴り響いたのだった。
―『丘』ジャン・ジオノ

 

私とあなたは違うということ。
私とあなたは違う言葉を話しているということ。
私は、あなたが分からないということ。
私が大事にしていることを、あなたも大事にしてくれているとは限らないということ。
そして、それでも私たちは、理解し合える部分を少しずつ増やし、広げて、ひとつの社会のなかで生きていかなければならないということ。
そしてさらに、そのことは決して苦痛なことではなく、差異のなかに喜びを見いだす方法も、きっとあるということ。
―『対話のレッスン』平田オリザ

 

公共性は真理ではなく意見の空間なのである.意見はギリシア語ではドクサとよばれる.意見とは,「私にはこう見える(ドケイ・モイ)」という世界へのパースペクティブを他者に向かって語ることである.公共的空間における私たちの言説の意味は,その違いを互いに明らかにすることにあり,その違いを一つの合意に向けて収斂することにはない.むしろ,この空間においてはある一個のパースペクティブが失われていくことの方が問題なのである.

 ー世界から身を退くことは個人には害になるとは限りません.……しかし一人撤退するごとに,世界にとっては,ほとんどこれだと証明できるほどの損失が生じます.失われるものとは,この個人とその同輩者たちとの間に形成されえたはずの,特定の,通常は代替不可能な<間>in-betweenなのです.(H.アーレント『暗い時代の人々』)

ある人の意見が失われるということは,他にかけ替えのない世界へのパースペクティブが失われるということである.ある人が公共的空間から去るということは,それだけ私たちの世界が貧しくなるということを意味する.なぜなら,正確にいえば世界そのものというものは存在せず,「世界はこう見える」が複数存在するだけだからである.

―『思考のフロンティア 公共性』齋藤純一

 

この社会は,9月11日以前からすでに暴力を予想したセキュリティの装置とサーヴィスに溢れていた.自らが排除したものと出会わざるをえないことをどこかで予期していたわけである.[…]
無視され,黙殺されようとしているところ,遠ざけられようとしているところに逆に「近さ」を設定していく動きを政治的と呼ぶならば,排除の完成を妨げるそのような政治的行為が私たちの社会認識にとっても不可欠の条件となっていること[…]

―『思考のフロンティア 思考をひらく』「見棄てる」という暴力に抗して 齋藤純一

 

山の家は隠遁者が籠もる庵の風情を失い、かつて父とよく行っていた登山道にある山小屋のにぎわいを見せた。テーブルにはワインのボトルが置かれ、ストーブが赤々と燃えるなか、友たちが夜更けまで語り合う。世の中から遠く隔てられた距離が、僕らをひと晩かぎりの兄弟にするのだった。

―『帰れない山』パオロ・コニェッティ

 

川に棲む魚の視点で見ると、すべてのものが山から流れてくるということだ。昆虫も、小枝も、木の葉も、なにもかも。だから、魚はいつも川上を見ているのだ。流されてくるものを待ちながら。川の、いまいる地点が現在なのだとしたら……と僕は考えた。過去は、すでに僕のところを流れ去った水、つまり下流へ向かう水だ。そこにはもう、僕のためのものはなにひとつない。それに対して未来は、上から流れてくる水だ。思いがけない喜びや危険をもたらす。ということは、過去は谷で、未来は山だ。

―『帰れない山』パオロ・コニェッティ

 

新聞はできるだけ冷静で客観的な文体で書くことが求められます。戦前の新聞ではかなり情緒的な文章があり、日本人に好戦的な気分をあおった一面があるという反省に立っています。

「思う」と「想う」

―『校閲記者の目』毎日新聞校閲グループ